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ボールを挟んで走る激痛 登録抹消→病院でも治らず…176勝左腕が抱えていた“謎”

Full-Count / 2024年10月31日 6時50分

1996年、日本シリーズで登板する元オリックス・星野伸之氏【写真提供:産経新聞社】

■星野伸之氏は1996年、開幕から3連続完投も…原因不明の痛みが襲った

 約1か月の離脱も乗り越えた。元オリックスエース左腕の星野伸之氏(野球評論家)はプロ13年目の1996年、13勝5敗の勝率.722で1989年以来、2度目となる最高勝率のタイトルを獲得した。防御率はキャリアハイの3.05でオリックスの2年連続パ・リーグ制覇に貢献したが、この年は序盤に謎の故障に苦しんでいた。「フォークボールを投げる時に痛みが出るようになったんです」。そこから復帰したわけだが、これには不思議なことがあったという。

 仰木彬監督率いるオリックスは1995年にリーグ制覇を果たした。その年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生。「がんばろうKOBE」を合い言葉に成し遂げた感動の優勝だった。だが、日本シリーズはヤクルトに1勝4敗で敗れた。星野氏は第3戦(10月24日、神宮)に先発して4回を1失点。第5戦(10月26日、神宮)は1-2の3回2死満塁、打者が秦真司外野手の場面に2番手で登板して1/3回を無失点と奮投したが、勝利にはつながらなかった。

「第5戦は緊張しましたね。これを抑えなかったら試合が終わってしまうという大事な場面でのリリーフでしたから。カーブ、真っ直ぐ、フォーク、フォークで三振だったかな。久しぶりでしたね。口の中が乾いたのは……」。その試合に1-3で敗れて、日本一を逃したが、星野氏にとっては大舞台での貴重な経験になったようだ。“次こそは日本一に”との気持ちも高めたのは言うまでもない。

 翌1996年、オリックスはパ・リーグ連覇を果たした。巨人との日本シリーズは4勝1敗。1年前にできなかった日本一も達成した。星野氏もレギュラーシーズンに22登板、13勝5敗で最高勝率のタイトルを獲得し、日本シリーズも第1戦と第5戦に先発して好投した。しかし、この年も決してすべてが順調だったわけではない。

 スタートは最高だった。3月31日の日本ハム戦(GS神戸)では2年ぶり5度目の開幕投手を務め、1-0の4安打無四球完封勝利。初回に打線が挙げた1点を守り、日本ハム・岩本勉投手との投げ合いを制した。「開幕戦は96球で終わった。“すみ1”の1-0でね。2時間かからなかったと思います」。中6日で先発した4月7日のロッテ戦(千葉)も4安打完封の1-0。3試合目の4月14日の西武戦(GS神戸)は延長11回を1失点完投。サヨナラ勝ちで3勝目を飾った。

 2完封を含む3試合連続完投で3勝0敗、防御率0.31。抜群の成績だったが、ここでアクシデントが発生した。「フォークボールを、それまでよりも(指に)力を入れて投げたらグッと落ちて、それで開幕から完封できて、これいいなと思って投げていたら、(ボールを)挟んだ瞬間に痛みが出るようになったんです。真っ直ぐとカーブは全然投げられたんですけどね」。星野氏は山田久志投手コーチに相談したという。


元オリックス・星野伸之氏【写真:山口真司】

■球の遅い投手の“宿命”「年に3試合くらいは大量失点をやらかす」

「僕は月間MVPも取れるかなと思っていたので投げたかったんですけど、時期も早いから1回抹消しようとなりました。でも病院に行っても治らなかった。針を打ったりとか、いろいろやったんですけどね。2週間経って『自己責任でボルタレンを飲んでやりますから』と言ったら『もう1週間だけ待ってくれ』と言われて、また病院に……。仰木監督からも塗り薬が来た。馬に塗る薬、めっちゃ浸透するヤツを送ってもらったんですけど、それでも治らなかった」

 結局、星野氏は“強行突破”を決断した。「『もういいです。これで投げられなくなったら、僕のせいですから、僕の責任ですから』と言って(1軍に上がって)ボルタレンを飲んで投げました」。約1か月ぶりに5月12日のロッテ戦(千葉)に先発。5回1/3を3失点で敗戦投手になったが、薬が効いて痛みに苦しむことはなかった。驚くべきはその後だ。「1か月飲んでいたら、治っちゃいました。不思議なことに何も飲まなくても痛くなくなったんですよ」。

 5月21日の日本ハム戦(東京ドーム)で、5回2/3を2失点で4勝目。5月28日の西武戦(倉敷)では5勝目を6安打完封勝利でマークした。フォークを投げる時の痛みはもはや一度もなかったという。前半終了時点で、8勝3敗でオールスターゲームにも出場。終わってみれば10年連続2桁勝利となる13勝5敗をマークしてオリックス連覇の立役者の1人になった。いったい、あの痛みは何だったのか。「そうですよねぇ。無理矢理投げてねぇ」と星野氏は今も首を傾げた。

 ちなみに、この年の防御率3.05が星野氏のキャリアハイだが、これについてはこんなことも話す。「防御率が2点台にならなかったのは、だいたい年に3試合くらいは、早い回に大量失点をやらかすからなんですよ。言い訳ですけど、球の遅いピッチャーの宿命かなと思います。ちょっと甘いと(バットの)根っこに当たっても、力がない分、やっぱり落ちるんですよね。それが1本くらいはいいけど、3本くらい続くと投げるところがなくなってボッコボコにされるんです」。

 とはいえ、毎年必ずそんな状況に陥りながらも1シーズンのうちにきっちり立て直していくのも星野氏の技術だろう。どんどん小さくなっていったテークバックなど、投球フォームの工夫をはじめ陰の努力もあってのことなのは間違いない。1996年は謎の故障も何とか乗り越えて結果を出した。“遅球プレーヤー”ならではの問題などもクリアしながら、その存在感を増していった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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