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1年春から登板も“破壊”された右膝 「何回も辞めようと…」治らぬ怪我に溢れた涙

Full-Count / 2024年11月12日 6時50分

元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】

■中田良弘氏は横浜高1年夏の練習試合で右膝を怪我…完治せぬまま復帰した

 阪神で先発でもリリーフでも活躍した右腕・中田良弘氏(野球評論家)は、横浜高時代に万全な状態で戦えなかった。1975年の高校1年夏の練習試合で右膝を故障。完治しないまま復帰して投げており「疲労が出ると痛みもあった」という。そんな中、絶えずライバル視していたのが東海大相模だ。6-5で勝利した1年秋の神奈川大会準々決勝で、1学年上の原辰徳内野手(元巨人)から三振を奪ったのは思い出の一コマにもなっている。

 横浜高では入学早々の1年春の神奈川大会、関東大会で登板するなど、いきなり存在感を見せていた中田氏だが、3回戦敗退で終わった夏の神奈川大会後の練習試合でまさかのアクシデントに見舞われた。「横浜高校のグラウンドで、相手はどこだったか忘れましたが、自分が二塁打を打って出塁したんです。そしたら二塁に牽制が来て、送球が悪くて(相手野手に)乗られたんですよ。それで右膝を痛めたんです」。これが高校生活に暗雲をもたらした。

「それから全力で走れなくなりました。いろいろ治療したけど(全力疾走は)無理でした。全然、筋力も落ちて……。何回も野球を辞めようと思ったし、普通だったら辞めていたんじゃないですか。なんでやっていたんだろうなぁ。まぁ自分の判断だったと思いますけど……」。結局、完治しないまま復帰。1年秋の神奈川大会からはマウンドにも上がるようになった。「長いイニングは投げないとかいろいろ配慮されてね」。

 投げ込みはできなかった。「軸足だったし、だんだん疲労が出ると痛みも出ましたね。まぁ、それでも投げていましたけどね。公式戦で打っても全力では走らなかった。走れなかったですからね」。1年秋は2番手投手の立場でベンチ入り。横浜高は神奈川大会準優勝で関東大会に進出した。中田氏はその神奈川大会の準々決勝で東海大相模に6-5で勝った試合が印象深いという。「その時に原さんから2三振をとったんですよ。それは覚えていますね」。

 当時の東海大相模は1974年夏、1975年春、夏と3季連続で甲子園に出場中。1年時から活躍する主軸打者の原は甘いマスクで人気も絶大の高校球界のスーパースターだし、スラッガー・津末英明(元日本ハム、巨人)、左腕エース・村中秀人ら実力者揃いで、この秋も優勝候補だった。横浜にとってはその年の夏の神奈川大会3回戦で敗れた相手でもあり、絶えず意識するライバル校。準々決勝での勝利は、東海大相模の4季連続甲子園の夢を打ち砕くものでもあった。

■後輩・愛甲猛が憧れ…歩いてマウンド往復する高校生は「中田さんだけ」

 その試合に中田氏は2番手で登板。右膝に不安を抱えながらも気力の投球で東海大相模の反撃を断ち切った。その勢いで横浜は勝ち上がり、決勝は横浜商に敗れたが神奈川2位で関東大会に出場した。だが1回戦で鉾田一(茨城)に1-3で敗れた。「(神奈川大会で)東海大相模を止めたし、選抜にも行けると思っていたんですけどね」。翌1976年春の選抜1回戦で糸魚川商工(新潟)を相手にノーヒットノーランを達成する鉾田一の左腕・戸田秀明投手に封じられた。

 鉾田一戦もリリーフで登板した中田氏は「あの時は戸田投手にやられましたね」と無念そうに話す。甲子園は遠かった。それ以降は神奈川大会の壁を破れなかった。1976年の2年夏は3回戦で鎌倉学園に1-4で敗戦。2年秋は準決勝で原らが抜けた東海大相模に2-5で敗れ、1977年夏は準々決勝で法政二に1-3。それで高校生活は終わった。「毎年、打倒・東海大相模でやってきたんですけどね」。振り返ってみても1年夏に右膝を痛めたのが悔やまれるという。

「膝のことがあるから(3年夏の)法政二戦も先発せずにリリーフ。先発はその先の“東海大相模戦で”って言われていたけど、その前に負けてしまって……。グラウンドでは泣かなかったけど、帰りのバスに乗り込む時、ベンチに入れなかった同級生たちを見て、勝てなくて悪かったなぁって気持ちになって……」。そこで初めて涙があふれた。膝が万全なら違う展開にもなっていたはず。その思いもまた重なった。

 この怪我に関連して中田氏は、横浜高の後輩で1980年夏の甲子園で全国制覇を果たした愛甲猛投手(元ロッテ、中日)の言葉も忘れられないという。「愛甲とは入れ替わりで僕が高3の時にあいつは中3だったんですけど、僕が投げている試合を見ていたらしいんですよ。で、のちに言われたんです。『中田さんだけでしたよ。マウンドから歩いてベンチに戻る高校生のピッチャーは。すごいな、かっこいいなって思いました』って。ただ走れなかっただけなんですけどね」。

 中田氏は笑いながら話したが、それほど右膝の状態は深刻で悪かったということだ。「愛甲には『そうか』と言って“実は膝が”なんてそこまでの話はしませんでしたけどね、そんな状況でよく投げていたと思いますよ。高校の時にプロからも話があったみたいですけど、膝が悪いので監督に『やめといた方がいい』って言われましたしね」。中田氏の野球人生にはずっと怪我がつきまとう。高校時代の右膝痛はその始まりでもあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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