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4年連続0勝で戦力外覚悟「クビになる」 崖っぷちの阪神右腕…1日で覚えた“新球”

Full-Count / 2024年11月22日 6時50分

元阪神・中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】

■中田良弘氏は1986年から4年連続未勝利も…1990年に10勝6セーブ

 再び“低迷期”がやってきた。元阪神投手の中田良弘氏(野球評論家)はプロ6年目の1986年から9年目の1989年までの4シーズン、1軍で1勝も挙げられなかった。阪神が優勝した1985年に12勝5敗と好成績を残したが、「あの年に無理していましたね」という。「毎年、クビになるんじゃないかと思っていました」。まさに苦しい日々だったが、そこからまた這い上がってきたのだから恐れ入る。「活躍するのが、4年周期くらいだったんですよねぇ」と苦笑した。

 中田氏はルーキーイヤーの1981年に38登板、6勝5敗8セーブをマークしたが、その年に右肩痛を発症。1982年は1勝0敗、1983年は0勝0敗と低迷した。徐々に持ち直して1984年は30登板4勝0敗、1985年は31登板で12勝5敗と阪神優勝に貢献したが、その翌年からまた低迷期に突入した。「85年に無理をしていました。もう行けるところまで行っちゃおう、もう駄目になってもいいというのもありましたからね」。

 右肩などの状態は以前よりも良かった1985年シーズン。だから無理もできた。優勝のチャンスとなり、なおさら自らにムチを打った。初の2桁勝利を挙げ、リーグ優勝&日本一も経験できたが、その反動が翌年以降に出た。加えて中田氏はこう話す。「優勝した年はオフもいろいろ(イベントなどで)大変じゃないですか。そこでもっと治療に専念とかしていれば……。それができていなかったなぁって、やっぱり反省ですよね。治療法にしても、もっと考えるべきでしたね」。

 1986年0勝1敗、1987年0勝2敗、1988年、1989年はいずれも0勝1敗と1軍では全く勝てなかった。「もう、これはちょっとやばいかなって感じでしたよね。クビになるんじゃないかってね。どこかが痛くなっても、痛いなんて、それこそ絶対言えなくなっていたし……」。すべてが悪循環だった。戦力外にならなかったのが不思議なくらいの成績だったが、中田氏はここからまたよみがえった。

 プロ10年目の1990年に45登板、10勝7敗6セーブ、防御率3.51の成績を残した。開幕は2軍で迎えたが、5月中旬に1軍昇格して、5月27日の中日戦(甲子園)でプロ1年目の1981年以来のセーブをマーク。6月2日のヤクルト戦(甲子園)では3番手で登板し、1985年9月10日大洋戦(横浜)以来の白星をつかんだ。「僕って4年周期くらいで活躍するのかな、そうなのかなって自分で考えたことがありましたよ」と中田氏は笑う。

■キャンプ初日に覚えたカットボール「ちょっとだけ中指を押してあげて」

「オリンピックみたいな4年に1回、銅メダルでもいいからやったら、間隔を空けてまたちょっと復活する。(体が)そういうふうになっているのかなぁなんてね。10年目はね、カットボールを覚えたんですよ。ホントにもう真っすぐかわからないくらいの球なんですけどね。それが効きましたね」。しかも、この新球は「安芸キャンプの序盤に1日で覚えた」という。「ひねらないでちょっとだけ中指を押してあげて……。そしたらちょっとだけ曲がるようになったんです」。

 すべて「たまたまだった」と話す。「たまたま投げたら、たまたまスッと曲がったんで、これ、ちょっと投げられるかなぁってね。それが投げられたんですよ。(球速は)140出るか出ないかくらいなんですけど、左バッターなんかちょっと曲がるだけでみんな詰まっていた。それで活躍できました。もう結果を出すしかなかった年にね」。だが、結局そこでも無理をした。今と違って、当時のリリーフは投げすぎの傾向もあり、体の負担は大きかった。

 5月27日のシーズン1セーブ目は4回無失点でマーク。そこから中2日で2回1/3、さらに中2日で2回を投げてシーズン初勝利、その次も中2日の4回2失点で2セーブ目……。「ブルペンで初回から肩を何回かつくって(試合のマウンドに)行くのは9回からっていうのもけっこうありましたからね。まぁプロ1年目からそうでしたけど、その頃はそれが当たり前。まず結果を出さなきゃって思っていましたからね」。

 6月17日の巨人戦(東京ドーム)に先発して6回2失点でシーズン初黒星。そこから中2日で6月20日の中日戦(甲子園)に4番手救援も、2回0/3を4失点で2敗目を喫した。前半最終の7月22日の広島戦(甲子園)では5番手で4回を投げて無失点で勝利投手。阪神・野田浩司投手の辞退による補充選手として出場したオールスターゲームはやむを得ないことだったが、中2日で第2戦(7月25日、平和台)に5番手で登板して1回5失点だった。

「オールスターの時はキャッチャーが(巨人の)山倉(和博)さんだったんですけど、カットボールのサインが出なかったんですよ。普通に真っ直ぐとカーブだけ。それで打たれました。まぁ前半戦でけっこう投げて疲れがピークの時にオールスターだったんで、ボールも全然行っていないと思いましたけどね。でもそうそうたるメンバーだったし、いい記念になりましたよ」。中田氏はそう振り返ったが、やはり肩などの状態が悪くなりシーズン終盤はリリーフ失敗も目立った。

「カットボールで面白みみたいなのもちょっとあったんですけど、やはり疲れが出てきたんでしょうねぇ」。シーズン45登板目の9月28日の大洋戦(横浜)に3番手で登板し、2回無失点投球で10勝目。1985年以来、2度目の2桁勝利だったが、結果的には現役ラスト勝利となった。右膝、右肩、右腕血行障害に続き、右肘まで痛めていたという。

 当時のリリーフは2イニング、3イニング、4イニング投げるのも珍しくなかった。中田氏は10勝をマークした翌年の1991年からまたまた低迷期に入るが、次は“中4年”のチャンスもなかった。「今は(回の)頭から行って1イニングだけでしょ。イニングをまたいだら大変なことをしているようなイメージじゃないですか。すげー、楽だなって思いますもんね。僕らは時代がちょっと早かった。今の時代だったら活躍できる自信もありますけどね」と、かつてのハードワークを思い出しながら話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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