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虎ファンが屈辱の言葉「心にグサッと」 わずか1登板の不振…傷ついた“ニセモノ扱い”

Full-Count / 2024年11月23日 6時50分

元阪神・中田良弘氏【写真提供:産経新聞社】

■中田良弘氏は1991年から再び低迷期へ…V争いの1992年は1登板

 グサリと響いた……。1992年の阪神はヤクルト、巨人と優勝を争った。最終的にはヤクルトにかわされ、巨人と同率2位に終わったが、若手の亀山努外野手&新庄剛志外野手の“亀新フィーバー”でも大いに盛り上がった。そんなシーズンに元阪神投手の中田良弘氏(野球評論家)はわずか1登板。「自分のボールが放れていなかった……」。1990年に10勝をマークしたが、以降は厳しい状況続き。1993年の春には何ともショックな出来事もあったという。

 中田氏はプロ11年目の1991年シーズンから、また力を発揮できなくなった。「(1990年に)10勝した年に頑張りすぎて使い果たしました」と言って笑った。右膝痛、右肩痛、右腕血行障害を抱えながら投げてきたが、そこに右肘痛まで加わり「回復力も遅くなった」という。「気も張っていただろうし、1回寝かすと起こすのが大変なんですよ」。

 それまでは時間こそかかったものの、何とか“起こせた”。だが、この時は手強かった。1991年は開幕2戦目(4月9日巨人戦、甲子園)に3番手で登板したが、フィル・ブラッドリー外野手と原辰徳内野手に連続本塁打を浴びるなど、1死も取れずに打者3人に3安打3失点でKOされる最悪スタート。結局14登板、0勝1敗、防御率8.05に終わった。亀新フィーバーが巻き起こった1992年はわずか1登板で0勝0敗、4.50。2軍戦には投げていたが、1軍の戦力にはなれなかった。

「2軍では精神的にも楽だし、調子が悪くても抑えられたりするけど、自分のボールが放れていませんでしたからね。1軍が優勝争いしている時に上がれなかったけど、まぁ上がったところで結果はわかるんで、そこまで(1軍に)加わりたいとかも思いませんでしたね」。それほどコンディションが最悪だったということだろう。それでも必死に立て直そうとしたプロ13年目、1993年のオープン戦では何ともつらい場面に遭遇した。

■1993年OP戦で子供からのヤジ「今でも覚えています」

「僕がブルペンで投げていたら、子どもが2人来てね『あっ“ナカダ”や、これニセもんや』って言ったのが聞こえてきたんですよ。同じ“ナカダ”やけど、マイク(仲田幸司投手)のニセもんってこと。ちょうどマイクが活躍しだしていて……。まぁ、心にグサッときましたね。いろんなことを忘れているけど、それは今でも覚えていますから」

 仲田は1992年に14勝12敗1セーブ、防御率2.53、リーグ最多の194奪三振でタイトルも獲得した左腕。子どもたちは幼すぎて、中田氏が1985年に12勝を挙げた阪神V戦士で、1990年には10勝をマークした右腕であることを知らなかった可能性があるとはいえ、ニセ者呼ばわりはショックだった。「『お前、しっかりしろ!』とか普通のヤジだったら“うるせーなぁ、もう”とか思ったりもするけど、反論もできませんからね、心に刺さるヤジというのは……」。

 中田氏は「まぁまぁ、でもしょうがないですよ。やっぱり実力の世界なんでね」と言う。当時も発奮材料にしようと思ったそうだ。「本物は俺だよって言えるように頑張りたいというのはあったんですけどね……」。1993年は13登板で0勝0敗、防御率3.72。4月10日の中日との開幕戦(甲子園)に3番手で1回2失点、4月14日のヤクルト戦(甲子園)に3番手で1回1/3を2失点と好結果を残せず、2軍落ち。1軍に戻ったのは9月上旬だった。

 当時34歳。「これがまだ30歳前だったら、何とかまた吹っ切ってっていうのもあったかもしれないけど……。いつクビかなぁ、球団も年齢的なところを見るだろうし、っていうのはありましたね」。あの時の子どもたちに、何とかしてでも活躍する姿を見せたかったが、厳しい現実が重くのしかかった。翌1994年が中田氏の現役ラストシーズンとなる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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