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“許せなかった”阪神からの戦力外 ビールかけも固辞…直後に決まったパ・リーグ移籍

Full-Count / 2025年1月27日 6時50分

阪神時代の川尻哲郎氏【写真提供:産経新聞社】

■川尻哲郎氏は阪神が優勝した2003年オフに近鉄へ移籍

 1990年代の阪神の低迷期を支えたサイドスロー右腕・川尻哲郎氏はプロ9年目、奇しくも阪神がリーグ優勝した2003年オフに近鉄に移籍した。左腕・前川勝彦投手との1対1の交換トレードだった。「(阪神から)『来年(2004年)契約しない』という話があったので、どこか移籍できるところを探してくださいと言ったんです」。事前に大阪・北新地のバーでの近鉄幹部との“面接”を経て決まったという。

 阪神が星野仙一監督体制になった2002年、川尻氏は開幕を2軍で迎えた。4月中旬に1軍昇格も、リリーフで2試合に登板しただけで2軍にUターン。「そんなに調子が悪かったわけではなかったんですけど、若い藤田太陽とか(藤川)球児とかを使い出したりして、僕の出番がなくなってきたと思う。2軍では抑えていましたけど、圧倒的な力がないと1軍は抑えられない。僕は首脳陣にその力がないと判断されていたんじゃないですかね」。

 1軍復帰は7月に入ってからで先発で起用された。「チームが勝てなくなってきて川尻を呼ぼうか、みたいな。たぶんそういうことだと思いますけどね」。意地を見せた。8月1日の横浜戦(甲子園)では8回無失点でシーズン1勝目。8月31日のヤクルト戦、9月7日の横浜戦(いずれも甲子園)では2試合連続で1失点完投勝利をマークするなど、5勝を挙げた。4敗を喫したが、ほぼゲームは作った。防御率は3.02だった。

 しかし、そんな後半の頑張りも翌2003年シーズンにはつながらなかった。メジャー帰りの伊良部秀輝投手や日本ハムからトレードで下柳剛投手が加入。川尻氏の出番は大幅に減った。「新しい戦力も出てきて、自分はもう呼ばれる立場じゃないなってわかっていましたよ。やっぱり監督や球団の考えというものがありますからね」。

 2003年は2登板だけ。6月17日の横浜戦(甲子園)は2点ビハインドの9回に4番手で登板し、2安打されながら1回無失点。その裏に打線が3点を奪って逆転サヨナラ勝ちし、勝利投手になったが、その後、2軍に降格した。8月7日のヤクルト戦(神宮)に先発したが、4回5失点で敗戦投手となり再び2軍行き。それで終わりだった。

「8月の先発の時に抑えとけばよかったんでしょうけど、打たれました。これはしっかり準備していなかった僕が悪かった。(2軍の時に)“川尻、絶対呼ぶから頑張れ”なんて言われていたら、また変わっていたかもしれないけど、あの頃はもう“ああ、駄目だな。もう登板ないんだろうな”って自分も切れていたところもあったから。そこがやっぱり甘いんでしょうね。真面目で野球が好きで、っていう気持ちがずっとあれば一生懸命やっているんだろうけど、切れていたから…」

■2003年に阪神優勝も…ビールかけなど祝勝会に不参加

 この年の阪神は7月8日の広島戦で優勝へのマジックナンバー49を点灯させるなど、首位街道をばく進した。「そんな優勝に絡んでいた時に(試合に)出してもらえないというのはねぇ……。関係ないときにすごい頑張ったけど、大事な時に使ってくれないのもあって、本来ならそれじゃあいけないんですけど、何か居場所がないなぁっていうふうに思っていたのは確かですね」。阪神低迷期にエース格として働いてきただけに、何とも侘しい思いがあったのだろう。

 2003年9月15日、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。だが、星野監督の胴上げにも歓喜のビールかけとなった祝勝会にも川尻氏の姿はなかった。参加を打診されながら断ったという。「何もしていないのに、そこにいるのは場違いだなって思ったんでね。『遠慮します』と言いました。自分なりのプライドというか、反抗というか……。その時はそうでしたけど、今考えると、行っていてもよかったかな、ともいうのもありますけどね」。

 2003年オフ、近鉄へのトレード移籍が決まった。「(球団から)『来年は契約しないから』って話があったので『ちょっと待ってください。今までこれだけ頑張ってきたし、どこでもいいので、どこか移籍できるところを探してください』と言ったんです。そしたら『近鉄がきちっと聞きたいと言っているから、ここへ行ってくれ』みたいな……」。指定された“面接”場所は「新地のバー」だった。そこに単身で行ったという。

「近鉄(球団本部長)の足高(圭亮)さんに会いました。『はじめまして』って言ってね。いろいろな話をしましたよ。“年俸はこれだけでいいか”とかもね」。最終的には前川との1対1の交換トレードに落ち着いたが、その経緯は「よくわからなかった」という。「まぁ、それはそれで、ちょっと環境を変えて、一生懸命やろうという気にもなりましたからね。パ・リーグの野球も見られるし、みたいな気持ちもありましたよ」。

 川尻氏の阪神生活は9年で終わりを告げ、10年目の節目の年からは近鉄のユニホームを着ることになった。もちろん、もう一花咲かせるつもりで気合も入れ直した。しかし、ここでまた“まさか”が起きた。近鉄球団が2004年限りで消滅という衝撃の事態が待っていた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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