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初登板で15失点「全然抑えられねぇ」 想定外の指令…18歳で受けた“プロの洗礼”

Full-Count / 2025年1月29日 7時45分

近鉄時代の品田操士氏【写真:本人提供】

■3か国を渡り歩いた元近鉄・品田氏が語るプロ1年目

 近鉄から米国、イタリアと渡り歩いた品田操士氏は埼玉・花咲徳栄高時代から豪快な性格だった。1991年にドラフト3位で近鉄に入団。ただ、プロに入ると他の選手と同じく、レベルの高さに驚かされたようだ。

 1年目の1992年は仰木彬監督の最終年だった。投手では野茂英雄を筆頭に阿波野秀幸、加藤哲郎がいて、野手では新井宏昌が現役でセンターを守り、指名打者にはラルフ・ブライアントと、実力者が揃っていた。

「学生野球、ましてや高校だけしか知らなかったからね。知っていても2つ上まででしょ。1年生から見て3年生は大人に見えた。近鉄に入ったらもう大人どころか、自分の親と同年代の選手もいるわけだから。この人たちと野球をやるのか、と」

 中でも花咲徳栄時代の恩師、稲垣人司監督の教え子でもあった小野和義投手にはお世話になったという。「球団の寮に入寮する前は小野さんの自宅に泊まって、一緒に練習させてもらっていた」。8学年上の左のエース格。品田氏は当時から物怖じしない性格だった。

 しかし、そんな品田氏のデビュー戦は、厳しい戦いになった。1年目の1992年9月1日の西武戦、昇格したばかりだったが、現ロッテ監督の吉井理人投手にライナーが直撃。「『品田、早く作れ!』って言われた。えぇ? オレ、きょう登録されたばかりなんだけど、でも試合に出られて『やったぁ』みたいな」と当時を振り返る。

■デビュー戦は衝撃の15失点「全然抑えられねぇ」

「最初から『明日も試合があるからお前が最後まで投げろ』って言われていた。実際に登板中、誰もブルペンで投球練習していなかった」。5回途中から登板し、コーチの予告通り最後まで投げた。投球イニングは3回2/3。その間に喫した失点は実に15。今なら考えられない、ドラフト3位高卒ルーキーのデビュー戦となった。

 50歳を超えた今、どのように思っているのだろうか。当時を「あれは良い経験だった」と振り返る。「相手は西武で、テレビで見たことがある選手ばかり。清原(和博)さんを三振に打ち取れたのは嬉しかったな。でもその前後、秋山(幸二)さんとデストラーデにはホームランを打たれたけど」。15失点を喫して「『うわぁ、全然抑えられねぇ』みたいな。でも2軍とは違う大観衆の中でマウンドに立ってみて、オレってそんなに緊張しないんだな、とは投げながら思っていた」。当時から笑い話に変えていた。

 2年目からは監督が鈴木啓示氏に変わった。「いろいろと問題もあったけどね。トレードもあったり」と当時を振り返るが、自身は3年目には自己最多の15試合に登板。「鈴木監督の時に使ってもらって、1軍登板も増えたのは確か。ローテーションにも入った」と感謝する。

 こうしてNPBでの9年間を終え、戦力外通告を受けた。次に追い求めた活躍の場は、本場アメリカだった。(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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