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往復2時間の通学→深夜に人知れず“痛めつけ” 元新人王を変えた屈辱「責任を感じた」

Full-Count / 2025年2月2日 6時50分

オリックスなどで活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

■熊野輝光氏の打棒は高2秋に急進化…校舎を越えていった打球

 一気にパワーアップした。1985年のパ・リーグ新人王で元阪急・オリックス、巨人外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は、1974年の香川・志度商2年秋から打撃が進化した。「アホみたいにボールが飛ぶようになりました」。飛距離が大幅アップし、本塁打を量産するようになった。いったい何が変えたのか。2年夏の香川大会準決勝敗退をきっかけに自宅ではじめた深夜の“秘密トレーニング”効果があったという。

 1974年夏、志度商は香川大会準決勝で丸亀商に4-7で敗れた。「あの時の僕らは最強と言われていた。それなのにやられてしまって、2年生ながら責任を感じました」。自身のパワー不足を感じたという。「1年上のピッチャーで丸商の山下さんを打てなかったのがホント、悔しかった。もっと力をつけないといけない、飛ばしたいと思いました。それでオヤジに言ってバーベルを買ってもらって、ウエートトレを家でやるようになりました」。

 志度商までは往復2時間超えの自転車通学。特に練習を終えての帰り道は上りの坂道が多く、クタクタになって帰宅していたが、そこからバーベルを使ったトレーニングを欠かさず続けた。「夜、寝る前にやっていました。家でやっていたことですから、そりゃあ(チームの)みんなは知らなかったと思います」。まだウエートトレの発想があまりなかった時代。「学校にダンベルくらいはあったけどウサギ跳びとか手押し車とか、そういうのをけっこうやっていましたね」。

 そんななかで敢えて深夜の“秘密ウエートトレ”を思いついた。「なんで僕がそう思ったのか覚えていない。何かを見たのかな。パワーをつけるにはそれしかないって考えたんですよね。一番は上体の力というか、腕の力をつけたいというのがあったのでね」。続けていくうちに成果も出るようになったという。「飛距離が上がりました。アホみたいにボールが飛ぶようになった。校舎がライトの方にあったけど、それも越えるくらいになったんです」。

■高2秋に四国大会準優勝…選抜切符を掴んだ

 打撃の進化はすさまじかった。「(校舎の)3階の窓とかには、よく当たるようになったので、そこにネットができました。昔の高松中央球場では場外ホームランを打ちました。どこまで飛んだんだって言われるくらいの当たりでした。ウエートトレだけでなく、もちろん捉え方もよくなっていたんでしょうけどね。新チームになってから、練習試合ではいつもホームランを打っていた感じでしたね」。

 2年秋の香川大会は優勝。熊野氏は準決勝の坂出工戦、決勝の高松一戦で本塁打を放つなど大活躍で「場外ホームランはその時だったかなぁ」と笑みを浮かべた。その勢いで志度商は四国大会も準優勝。選抜切符をつかんだ。準決勝の鳴門戦は6-5の逆転勝ち。「鳴門は住友(一哉投手、元近鉄、阪神)ですね。あの時はウチのキャッチャーの安西が8回に逆転2ランを打ったんですよ」。チーム一丸での勝利でもあった。

 四国大会決勝は高知に0-11で敗戦。志度商打線は高知・山岡投手の前に6安打に封じられたが、そのうち3安打は熊野氏で三塁打を放つなど気を吐いた。高知は翌1975年の選抜大会で優勝を成し遂げた。主軸のスラッガー・杉村繁内野手(現ヤクルト1軍打撃コーチ)は大注目の存在で、1学年下の東海大相模・原辰徳内野手(元巨人)と「西の杉村、東の原」と並び称されたが、その一方で熊野氏も「右の杉村、左の熊野」と言われた。

「当時、高校通算本塁打が何本とか、考えたこともなかったけど、僕もかなり打っていたと思いますけどね。でも、杉村はすごかったですよねぇ……。とんでもないバッターだと思いましたもんね」。深夜のバーベル上げで2年秋からパワフルに変貌した熊野氏は強力ライバルにも刺激され、左の強打者として成長していった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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