父親のプロ入り拒否で“無関係のドラフト” 大学進学で…傍目に見たライバルの1位指名
Full-Count / 2025年2月4日 6時50分
■熊野輝光氏は中大で1年春から4年秋まで全試合に出場
阪急などで俊足、強肩、強打の外野手として活躍し、1985年にパ・リーグ新人王に輝いた熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は志度商から中大に進学。1976年の大学1年から遊撃のレギュラーをつかみ、1979年の大学4年秋まで全試合に出場した。順風満帆だったわけではない。大学2年時には首位打者争いも繰り広げたが、打撃はそこから「尻すぼみだった」。守備も大学3年時に三塁、4年時には外野へ転向となった。
熊野氏が志度商3年だった1975年11月18日、東京グランドホテルでプロ野球ドラフト会議が開催された。当時は予備抽選で選択順を決定し、1番クジの球団から指名していく形式だった。大学進学を打ち出していた熊野氏にとっては関係ないドラフトだったが、高校時代に戦ったライバルは指名された。四国でしのぎを削った右のスラッガー、高知高の杉村繁内野手は6番クジのヤクルト1位。「やっぱり杉村はすごいなぁと思いましたね」。
ほかにも1974年の高校2年秋に四国大会準決勝で対戦して勝利した鳴門高のエース・住友一哉投手は8番クジの阪急1位(入団拒否→法大進学)、1975年選抜大会1回戦で抑え込まれた広島工の小林誠二投手は広島4位だった。「まぁ、自分はそういう立場になる人間とは思っていなかったんでね。その時はプロなんか本当に考えられませんでしたから。巨人ファンだったけど、巨人に入りたいとかそういうのもなかったですね」。あくまで別世界と受け止めていたようだ。
最大のライバル・杉村がヤクルトに入団した中、熊野氏は香川から上京し、中大に進学。高校までは自宅通いで、初めての寮生活だった。「大変というか、当時は今と違っていろいろありましたからねぇ。“集合”とかね」と言うが、1年春から頭角を現した。「何か知らんけど、ショートで出させてもらいました。打順は1年の時は何番だったかな。のちに西武に行った(外野手の)岡村(隆則)さんが4年生で1番で、僕は2番とかだったと思う」。
1977年の大学2年時には駒大の山本文博内野手と首位打者争いも。「最後の最後でいけるかなと思ったら駄目だった。何厘さかで負けました。そんなこともありましたね」。しかし、打撃の状態はそれ以降もうひとつだった。高校時代は左の長距離ヒッターとして知られたが「大学では高校みたいに大きいのは打てませんでした。やっぱりレベルが違った部分はあったのでしょうね。それに大学の時は練習しなかったですから。そりゃあ、そうなりますよ」。
■2年まで遊撃…3年で三塁、4年で外野に回り主将を務めて全日本選手権V
本塁打は大学通算5本。「覚えているのは(1学年上の東洋大・)松沼の弟、“オトマツさん”(松沼雅之投手、元西武)から打ったホームランくらい。バッティングは(3年、4年と)尻すぼみって感じでしたね」。守備も安定しなかった。「2年まではショートでしたけど、1試合で3つか4つエラーしてしまって……。当時は人工芝じゃないですからね。土のグラウンドでガタガタのところですぐイレギュラーするんで守るのも嫌だった」。
大学3年時は三塁手。「2つ下で銚子商から尾上(旭内野手、元中日、近鉄)が入ってきて、彼がショートになりました」。大学4年時は外野に転向となった。「神宮でもホイホイやっちゃっいましたしね。でも外野の方がよかったですよ。肩も強かったし、足もそこそこあったので打球感覚もよかった。守っていて外野の方が全然ストレスがないんで自分としては楽でしたね。内野だったらランナーがサードにいたら、またやったらどうしようとか思っていましたから」。
外野手になった大学4年はキャプテンを任された。中大・宮井勝成監督に指名された。「僕が1年の時からずっと出ているっていうのはあったと思いますけどね。僕らの代ってあまり俺が俺がって言うヤツがいなかったし、みんな干渉しないって感じでそれもよかったりして、けっこう楽だったですけどね」。その年(1979年)東都大学春季リーグで中大は優勝した。熊野氏にとっては大学で初体験の優勝だった。
「あの時は戦力も揃っていたんですよ。ピッチャーは巨人に行った香坂(英典)がよくてノーヒット・ノーランもやったし、野手もヤクルトに行った小川(淳司)がいて、(下級生にも)高木豊(元横浜、日本ハム)がいて、尾上がいて、柳川商の時に甲子園で8打席連続安打をやった末次(秀樹)もいた。ピッチャーは米村(明投手、元中日)もいたし、けっこう有名人もいたんですよ」
中大はこの年、第28回全日本大学選手権でも決勝で岡田彰布内野手(元阪神、オリックス)を擁する早大を破って優勝した。「チームが強かっただけで僕自身の成績はそんなによかったわけではなかったんですけどね」と熊野氏は振り返るが、この年は第8回日米大学野球の日本代表にも選出され、主将を務めた。岡田や東海大・原辰徳内野手らの当時の大学スター軍団をまとめることになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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