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可愛いから…だけじゃない?『溶鉄のマルフーシャ』『救国のスネジンカ』で過酷な運命と戦う少女たちになぜ心惹かれるのか。“バッドエンドが「良い悲劇」になる条件”とは?

Game*Spark / 2024年11月26日 18時0分

!注意!
本稿では『溶鉄のマルフーシャ』エンディングのネタバレが

多少含まれます。閲覧に際してはご注意ください。



個人開発者hinyari9氏が手掛ける『救国のスネジンカ』がヒットを飛ばし、前作『溶鉄のマルフーシャ』に続き人気作となりました。本作はディストピア社会で銃を手にした少女たちが、生き残りのために奮戦する物語です。


『救国のスネジンカ』は最新作であるためネタバレを避けますが、『溶鉄のマルフーシャ』などは遊んだゲーマーから“バッドエンド多し”と言われ、「救いはないのか!?」という声が多くのユーザーから上がったタイトルです。かろうじて救いのあるトゥルーエンドでも「解釈次第では救い……かも?」という結末です。しかし筆者は安直なバッドエンドじゃないからこそ支持を集めたと強く主張したい!


『救国のスネジンカ』である種のアンサーが出されたとはいえ、本シリーズが“バッドエンドな世界”であることは否定しません。しかし多くのファンを生み出し、二次創作界隈も生まれるほどの人気があるのも真実です。「バッドエンドでありつつも、人々の心を打つ」というのは「女の子が可哀そうな目に遭うことが好き」というサディズム的な文脈とは違うでしょう。


では「過酷な運命と戦う少女」たちを描く『マルフーシャ』シリーズはなぜ多くの人の支持を得たのでしょうか。本稿ではなぜ“バッドエンド多し”な本作が(いわゆるサディズム的文脈ではなく)好まれるのかをざっくり分析していきます。


『溶鉄のマルフーシャ』に限らず、ゲームにおいて「バッドエンドであるにもかかわらず心に残った名作がある」という方はぜひチェックしてみてください。


◆「理不尽なディストピア」は現実社会の無常とつながる


まず、『溶鉄のマルフーシャ』のエンディングでは“仲間同士での裏切り”や“黒幕と戦ったうえで負ける”という展開はありません。前線で戦っているマルフーシャたちがバッドエンドになるときは、たいていは名もなき敵兵士に負かされるのです。


忘れてはならないのが、『溶鉄のマルフーシャ』はディストピア社会を舞台に徴兵された少女たちが戦う物語。独裁国家で徴兵された存在である以上、敵軍の上層部にいるボスとの戦いなんて起こらないのです。そもそも、味方であるはずの国も「一般人にとっては」敵対的存在描かれます。少女たちは徹頭徹尾、上層部に都合よく利用される道具なのです。


『救国のスネジンカ』でも立場や状況は変われど、それは変わりません。これが上手いところで、プレイヤーたちは「誰を憎むべきか」という対象がぼかされたまま悲劇を体験していくことになります。


指導者の「理念や性格」などは(あまり)見えず、圧政あるのみ。敵国にも得体の知れない気味悪さがあり、救いを求めることもできません。頼れるのは戦場を共にする相棒のみ。「この世の不条理」vs「少女」という構造がシンプルに組み立てられており、この“どうしようもなさ”がプレイヤーに「悲しいけど、それ以外に道はない」と感じさせてくれるのです。


『救国のスネジンカ』はマルフーシャの妹、スネジンカが主役となる続編とあって、さらに各組織や人間関係が複雑化されました。シンプルな構造から脱して「ファンが知りたかったアレコレ」まで語られるようになったわけですが、しかしここでも「ままならなさ」は変わりません。


『マルフーシャ』シリーズで忘れてはいけない要素が、パートナーとの絆です。悲惨な結果に終わろうとも、個性豊かなキャラたちと絆をはぐくむ“人情”が、幾分かプレイヤーの心を和らげてくれるのです。


そして「少女である」という要素も非常に重要となってきます。もちろん可愛らしい少女がプレイアブルキャラだという「可愛いは正義」な点も本作の魅力ですが(実際、筆者が初めに『溶鉄のマルフーシャ』を手に取ったのも「あ、可愛い」が理由でした)、そもそも少女が「戦場に縁がない存在」であるということも無常感や理不尽さを加速させるのです。


これは「可愛らしい少女がその身に似合わない銃を持つ」という「セーラー服と機関銃」的なギャップであると同時に「『マルフーシャ』世界ではそうせざるを得ないほど戦争が加速している」という説得力としても機能します。しかしプレイヤーは「現在の日本でそんなことはありえない」と違和感を感じるのです。


◆「悲劇」が「劇」であるために重要な“リアリティ”


さて、「バッドエンドだけど心に残る作品」は古今東西「悲劇」という形で親しまれてきました。特に日本においても悲劇の物語は数多く描かれています。有名なところで言えば「平家物語」の「敦盛最期」などでしょうか。今では“信長が踊るあの踊り”という印象が強いですが、これは源平合戦で平家が敗走する中、源氏方の熊谷直実が16歳の平敦盛を討ち取る物語です。


たまたま出合わせた平敦盛と熊谷直実の一騎打ちがストーリーのメインなのですが、熊谷直実は直前の「一ノ谷の戦い」で16歳の子を亡くしており、平家の武将は仇となります。一騎打ちは熊谷直実の勝ちに終わり、いざ首を取ろうという段階で、敦盛が息子と同じく16歳であると知り、亡き息子と敦盛を重ね合わせてしまいます。


息子と敦盛を重ね合わせた熊谷は、未来ある彼の首を取りたくないと思うわけですが、“平敦盛”は立派な大将首……斬らねば裏切りに当たると味方に言動を見張られる中、敦盛を討ち取ることになります。そして褒賞を断り、世を儚んで出家するというのが「敦盛最期」の結末です。


これは戦争という状況下で、平家と源氏という垣根を超えた関係性を得たにも関わらず、「世の無常」に抗えないという内容です。人の想いを超える社会情勢が「殺された息子と似た存在になってしまった敦盛を殺す」という因果極まる惨状を生み出します。


ちなみにこの一連の流れは歌舞伎などで「一谷嫩軍記~熊谷陣屋」として脚色され、忠義のために「敦盛を生かすため、偽装として息子の首を献上する」という内容に代わります。歌舞伎役者の演技もあわさり、めちゃくちゃかっこいい話になっていますので、オススメです。


「一谷嫩軍記~熊谷陣屋」では“忠義”という要素が含まれていますが、どちらにしても悲しみが残る終幕と言えるでしょう。しかしこれが「金返せ!」と言われずに悲劇の名作として受け入れられるのはひとえに「リアリティがあるため」です。


この場合の“リアリティ”とは、実は「現実にあった事象」「実際にある世界」を思わせることに関わりません。要は「共感」であって、登場人物の行動に納得できる「リアリティ」を感じられるかどうか、ということです。熊谷直実は「武士としてのリアリティ」、マルフーシャやスネジンカは「徴兵された少女たちがとる行動」の説得力を持っていて、そこがブレていないのです。


話をゲームに戻すと『溶鉄のマルフーシャ』『救国のスネジンカ』は「次々に増えていく税金」「上司に逆らえない無常」などから、我々が生きる現実の社会と繋がる表現が多々見られます。圧政の描き方もひとつひとつ分割してみてみたら、「こっちが頑張ったのに上のほうの決断で全部オシャカだよ……」など受け取れたりと、なかなか共感できてしまうのです。


『サイバーパンク2077』など、いくつかのサイバーパンク系ディストピア作品でもこういった表現を見られますし、プレイヤーは「フィクションとしてのバッドエンド」ではなく「フィクションだけど“現実にも通じるところがある”バッドエンド」として体験することになるのです。極論で言えば「敦盛最期」も「熊谷陣屋」も遠い過去の話で、「首取った」だの「忠義のために息子を切る」だの、“現在においてはリアルな話”じゃないのですから。


この「共感の要素」というものは、ゲームにおいてことさら増すものだと思います。なぜなら今までの書籍・演劇・映画などのエンターテインメントが「受動的」なものだとしたら、ゲームは没入感に特化した「能動的」な媒体だからです。マルフーシャやスネジンカが生き残っていくというのは「プレイヤーのゲームプレイ」の結果。つまり、インタラクティブ的な体験としてゲームプレイがあるわけで、必然的に“共感”が深くなる媒体なのです。


もちろんゲームならではの没入感があるといえど、主軸にリアリティ(共通項)が無いと悲劇は成立せず、人の心を揺さぶることはできません。


もし「徴兵された少女」であるマルフーシャが序盤から熊谷直実のごとく「一枝を伐らば、一指を剪るべし(「熊谷陣屋」の台詞で、“敵の敦盛を守る代わりに自分の息子を斬る”という忠義の言葉)」とか覚悟の決まったことを言い出したら、プレイヤーは「少女じゃなくて、そういう覚悟が決まった武人なんだ」と思うことでしょう。


パン屋の少女が不条理と戦うからこそ、悲しいけれどバッドエンドに納得できてしまい、「悲劇」たりえるのです。もし悲“劇”からリアリティを取り払ってしまえば、「特殊な存在が酷い目に合う」というストーリーテリングになり、共感はできない「不条理ホラー」あるいは「冒険活劇」になってしまうのかもしれません。それはそれで面白いのですが、両作品で感じられる魅力とはまた異なる性質となります。




つまり、『マルフーシャ』シリーズの良さはリアリティに基づいているから生まれるというのが筆者の結論です。バッドエンドにいたるまでの、ゲームとしての表現が“現実寄り”で秀逸なのですね。


『溶鉄のマルフーシャ』『救国のスネジンカ』が主体となってしまいましたが、『サイバーパンク:2077』『This War of Mine』……その他のバッドエンドな傾向がある作品にも同様の要素が見られるかもしれません。もちろんバッドエンドが嫌いという方もいるでしょう。しかしバッドエンドに心の底でどこか心惹かれる方は、ぜひ『溶鉄のマルフーシャ』『救国のスネジンカ』を遊んでみてはどうでしょうか。“悲劇を慈しむ”ことは、不思議なことに自分の辛さを救ってくれたりもします。


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