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30歳のDF、試合で体が動かない!(『それ自体が奇跡』第4話)

ゲキサカ / 2017年12月23日 20時0分

30歳のDF、試合で体が動かない!(『それ自体が奇跡』第4話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで1月10日まで限定公開!


奔走の五月

 届く、と思ったボールに届かない。頭を越され、ひやっとする。あわてて走る。相手フォワードの背中を追う。
 幸い、もう一人のセンターバック相原拓斗がまわりこみ、ゴールラインの外にボールを蹴り出してくれた。セーフティファースト。だが相手にはコーナーキックを与えることになる。
 リーグ一部には、まだ慣れない。触れると思ったボールに触れない。出だしの一歩が遅れる。そんなことが多い。三部とのレベル差はかなりある。うまい大学生と普通の高校生、ぐらいの差はある。対応できないことにもどかしさを覚える。やれないはずがない。そんな思いばかりが先走る。
 体はどうにか戻した。が、試合をやってみてわかった。やはり走れない。肝心なときに足が動かないのはマズいので、初めから抑え気味になる。
「ラスト十! 前半ゼロ!」との声がベンチの監督からかかる。
 池内利正さん。大学の先輩だ。おれより七歳上。プロ経験はないが、アマチュアのトップ、JFLでプレーをしたことがある。
 指示の内容は、前半は残り十分、点はとられるなよ、ということだ。正しい指示だと思う。無理に点をとりにいくべきではない。カウンターを食い、〇対一で前半終了。そうなることは避けたい。
「まず守備!」
 これはおれら守備陣にというよりは、攻撃陣に出た指示だ。フォワードも攻撃的ミッドフィルダーも守備を意識しろ、という意味。前線からの守備。チーム全体での守備。サッカーの戦術は時代とともに変わるが、そこはもう変わらないと思う。この先も、フォワードは守備をしなくていい、にはならないはずだ。
 フォワードにも守備が求められるように、ディフェンダーにも攻撃参加が求められる。おれらセンターバックの場合は、ビルドアップ能力が必要とされる。ディフェンダーから攻撃を組み立てていく。後方から押し上げていく。おれ自身は、得点を求められてもいる。試合の終盤、どうしても得点がほしいとき。おれはセットプレーの際に前線に上がり、キッカーのターゲットになる。つまり、ヘディングでゴールを狙う。それこそ田中マルクス闘莉王のように。
 彼ほどではないが、おれもそこそこ点をとる。言ったように、去年はチームの得点王だった。さほど勝ち負けにはこだわらないチームだったから、思いきったプレーができたのだ。今はそうはいかない。守備で精一杯。攻める余裕はない。上がっても、あとの守備のことばかり考えてしまう。
 前半ゼロ。まず守備。チームはその指示どおりに動き、前半を〇対〇で終えることができた。ハーフタイムに監督は言った。
「後半は仕掛けるぞ。立ち上がりに一点とろう。とれば向こうはあせるから。力はウチが上だ。引き分けはなしな。勝ちにいこう」
 後半。立ち上がりに点はとれなかった。とれそうでとれない。いやな流れになった。フォワード梅津新哉のヘディングシュートはクロスバーに当たり、攻撃的ミッドフィルダー高岡明朗のミドルシュートは相手キーパーのセーブに阻まれた。
 そして後半三十分。食ってはいけないカウンターを食った。前がかりになったところで、攻撃的ミッドフィルダー片桐司がボランチの南部至に出した横パスをカットされ、一気に攻守が入れ替わった。
 対応できる自信はあった。が、詰めに行った右サイドバックの浜智彦がかわされたことで、目論見が外れた。走りこんできた相手ミッドフィルダーにパスを出される。拓斗が懸命に追い、ペナルティエリアに入ったところでタックルにいった。相手は大げさに声を上げて倒れ、主審の笛が鳴った。PKだ。ボールに行ってはいたが、足はかかっていた。拓斗にイエローカードが出された。
 失点を覚悟した。が、キーパーの大谷潤がPKを止めた。見事にコースを読み、自身の左に来た速いボールを左手一本ではじいたのだ。こぼれ球はおれがすかさずクリアした。そして潤に、オーケー、ナイスキー! と声をかけた。
 潤は今年二十四歳と若く、身体能力が高い。おれがこれまで見てきたキーパーでも、一、二を争うかもしれない。ただし、ムラがある。ノっているときはスーパーセーブを連発するが、とられるときはあっけなくとられる。
 そのPK阻止で、ウチに勢いがついた。が、ワンプレーで流れが変わるのもサッカーだし、変わらないのもサッカーだ。どんなに攻めていても、ボールを奪われた十秒後に点をとられることもある。今日のウチが、まさにそうなった。
 食ってはいけないカウンターをまた食った。同じミスをくり返した。上がった左サイドバックの魚住伸樹がフォワードの有村圭翔にパスを出し、圭翔が一度伸樹に返したところを狙われた。相手ボランチは奪ったボールを素早く前線に送った。長い縦パス一本。それがフォワードに通った。
 おれとフォワード。一対一になった。そのフォワードに技術があることは、そこまでの時間でわかっていた。強さはない。巧いタイプだ。負けるとは思わなかった。のに、負けた。フェイントには引っかからなかったが、まさに、触れると思ったボールに触れなかった。スピードに遅れをとり、一歩先を行かれた。認めるしかない。一対一でやられた。抜かれた。
 フォワードの前にはもはやキーパーの潤しかいなかった。まだ出るな、粘れ、と思ったが、潤は前に出た。おれを抜いたフォワードからパスを受けたミッドフィルダーが、インサイドキックでボールをゴールに流しこんだ。
 終了五分前。何とも痛い失点だった。立って試合を観ていた数十人のお客のうちの何人かがパチパチと手を叩く。相手のベンチからは喜びの声が上がった。ウチのベンチからはため息とうめき声が洩れた。
「まだまだ! 追いつけ追いつけ!」
 監督は疲れの見えるボランチの稲垣光と右サイドバックの智彦を外し、攻撃的ミッドフィルダー倉橋悠馬とフォワード弥永剛康を入れた。ディフェンダーを三人に減らし、フォワードを三人に増やす。とにかく攻めろ、との意思表示。次いでこんな指示も出した。
「貢! 上がれ!」
 セットプレー以外でも機会があったら攻め上がれ、ということだ。
 だがそれからの数分で、おれが上がれる機会はなかった。ウチの足は止まらなかったが、相手の足も止まらなかった。ウチはもう一度ピンチを迎え、それはどうにかおれと拓斗で防いだ。そのまま自陣のコーナー付近で相手にうまく時間をつかわれ、タイムアップの笛を聞いた。
 〇対一。初めての敗戦。整列して、相手チームの選手たちと握手をした。
 その後、チーム全員でグラウンドの隅に座り、ミーティングが行われた。おれは自ら言った。
「ごめん。せっかく潤がPKを止めてくれたのに」
「いや、全員のミスですよ」とキャプテンの司が言う。「始まりはおれかもしれない。PKにつながる最初のパスミスはおれですから」
「そのあとのカバーもマズかったですね」と拓斗。「全部後手後手でした。ああいうときの余裕がまだないんですよね」
 そのとおりだ。それはまた、おれと拓斗のコンビがこなれてないことの表れでもある。
「とにかく、もっとシュートを打たないとな」とこれは監督。「打たなきゃ相手はこわくない。明朗のミドル一本じゃ足りんだろ。遠めからでも打ってくる。その姿勢を前半のうちに見せとくべきだった。これをいい薬にしよう。この一敗で止めとこう」
「ういっす」と選手たちが口々に言う。
 三月の終わりに開幕した東京都社会人サッカーリーグ一部。これまで四試合を消化し、三勝一敗。よその結果にもよるが、たぶん、得失点差の関係で、三位とかそのあたり。悪くはないが、ベストでもない。もう一つも順位を下げられない。十五チームのなかで上三つに入らなければならない。その三チームが関東社会人サッカー大会に出られる。そして各県から十六チームが出場するその大会で決勝に進んだ二チームだけが、関東サッカーリーグ二部に昇格できる。そんな仕組みだ。道は険しい。
 その名になって二年めの、カピターレ東京。キャプテンは片桐司。三歳下。大学は同じだ。おれが四年生のときの一年生。つまり、司が入学した年のサッカー部でキャプテンを務めたのがおれだ。
 司のことは覚えていた。さっきおれを抜き去ったフォワードのように、技術が高い選手だった。おれが卒業したあと、二年からレギュラーになった。カピターレ東京には、前身のOBチーム時代から在籍している。今季はキャプテンに選ばれた。
 歳下とはいえ、チームに知り合いがいてくれたのはよかった。入団後、初めての練習で顔を合わせたとき、司は自ら言った。
「一応は自分ですけど、田口さんがキャプテンのつもりでいてくださいよ。おれにしてみれば、田口さんがいるチームなら、キャプテンは田口さんですから」
「いや、キャプテンは司だよ。キャプテン司。語呂もいい」
「それ、みんなに言われますよ。だからキャプテンは昔からあまりやりたくなかったんですよね」
 おれが前からこのチームにいたとしても、キャプテンは司がやるべきだ。最年長者ではないほうがいい。高校や大学のように二歳差三歳差のなかに全員が収まるなら別だが、十歳近くも幅があるなら、真ん中よりやや上ぐらいの者がやるのが妥当だろう。圧倒的な統率力があること、との条件つきで、逆に最年少者がやるのもいい。
 今のチームでは、その最年少者が相原拓斗だ。まだ大学を出たばかり。今年二十三歳。あとはフォワード有村圭翔と、終了間際に交代で出た攻撃的ミッドフィルダー倉橋悠馬。その三人が同い歳。
 クラブの代表の立花さんも、拓斗には大いに期待している。JリーグのチームからもJFLのチームからも声がかからなかったことを知るとすぐに動いたらしい。そしてチームの理念を説明し、口説き落とした。
 監督は、開幕戦で、この拓斗と、去年までのレギュラーセンターバック小林恭太を組ませた。が、そのコンビはわずか一試合で終わった。試合の五日後に恭太が退団したからだ。開幕戦があったのは三月二十七日。五日後は四月一日。つまり、転勤してしまったのだ。よりにもよって、北海道へ。
 恭太は八重洲に本社がある食品会社に勤めていた。カップ麵で有名な会社だ。業界では最大手。だからこそ、全国に支店がある。もちろん、カピターレ東京でプレーしていることは会社に伝えていた。それまでは本社で働きながらプレーした。だがここへきて、あっけなく転勤が決まった。
 クラブは、去年もほぼ全試合に出場していた恭太を残したかった。試合のある土日だけ東京に来させることも検討した。恭太自身も検討した。出した答は、ノーだった。これが宇都宮や仙台だったら、またちがっていたかもしれない。だがさすがに北海道は遠い。飛行機に乗ってしまえばすぐとはいえ、チームも往復の旅費までは出せなかった。そんなわけで、恭太は開幕戦のみ出場し、退団した。
 その開幕戦は、攻撃的ミッドフィルダー明朗とフォワード圭翔のゴールで、二対〇と勝利した。幸先のいいスタートだ。と思ったら、恭太の退団。チームは早くも危機に見舞われた。
 一週間後の第二戦。動揺が収まらないなか、監督はおれをスタメンでつかった。困ったときのベテランだ、頼むぞ、と言って。土日休みでないおれは、土曜の前日練習にも参加していない。ぶっつけもぶっつけだった。
 久しぶりに気合が入った。もう若くない。が、経験はあるはずだ。リーグ三部の試合だって、試合は試合。出ればやることはやった。三部のチームにも、一人ぐらいはずば抜けて能力が高い攻めの選手がいた。その選手たちは抑えてきた。チームとしての負けは多かったが、個人で負けたと感じたことはない。
 その第二戦も、どうにか勝つことができた。最後の二十分はさすがにバテたが、集中は切らさなかった。途中交代もさせられなかった。二対一。右サイドバックの智彦が与えたPKで一点はとられたが、守備を崩されはしなかった。攻撃的ミッドフィルダーのキャプテン司とフォワードの圭翔。二点をとってくれてたすかった。
 続く第三戦も、おれはスタメンでつかわれた。一対〇で勝った。その一点はPK。下手をすればこちらのシミュレーションをとられてもおかしくない、微妙な判定だった。派手に転んでPKを得たのは圭翔だが、蹴ったのは明朗だ。そこは監督の指示どおり。圭翔が決めていれば三戦連続のゴールだったが、そこは新人、蹴らせてくれとまでは言わなかった。
 その試合は、かなり攻められた。おれと拓斗は急造コンビの弱さを露呈した。位置が重なることもあったし、大事なところでお見合いをしてしまうこともあった。それで結果は完封なのだから、サッカーはわからない。
 でもって、今日だ。初めての負け。おれ自身も負けた。やられた。だが、何というか、沸いた。出場三試合めにして初めて、戦った感じがした。勝ちたいな、とシンプルに思った。
 試合が終わったのが午後五時。そしてシャワーを浴び、トレーナー成島さんのマッサージを受け終えたのが午後六時すぎ。
「おつかれ。じゃあ、また」
 そう言って、チームのエースである高岡明朗は帰っていった。どこへって、名古屋へ。明朗は、今年ただ一人の地方組なのだ。去年はもう一人いたらしいが、退団した。まだ二十八歳だったが、引退したのだ。やりきった、ということで。
 明朗は、大手光学機器メーカーの名古屋事業所に勤めている。異動したのは去年の四月。小林恭太同様、立花さんが引き留めた。明朗自身も、チームに残ることを選んだ。今は毎週末、新幹線でやってくる。土曜日の朝イチに来て練習に参加し、一泊して、翌日曜の試合に臨む。試合が終わると、その日のうちにまた新幹線で帰っていく。そんなことを、シーズンが終わるまで続ける。
 平日の練習には出られない。調整は自分でする。名古屋でジムに通い、ランニングをする。サボろうと思えばいくらでもサボれる。誰も強制しない。監視の目もない。だがそこでサボるくらいなら、初めからやらない。とはいえ、キツいだろうな、と思う。平日はフルに仕事をしているのだ。そして名古屋と東京の往復。泊まるのも、ホテルではない。一人暮らしの友人宅か、カピターレ東京の事務所。
 江東区のその事務所には、おれも何度か行った。商店街、まさにだんご屋の二階にある、普通の事務所。広くはない。三つのデスクとソファが置かれているだけ。そのソファで、寝るのだ。
 肉体的な負担だけでなく、経済的な負担もある。聞けば、往復の新幹線代はすべてクラブ持ちでもないらしい。せいぜい半分。残りの半分は明朗自身が出している。遠距離恋愛をしてると思えば何でもないですよ、と本人は笑うが、思えないだろう。それでも、やる。沸き立つ本気のサッカーができるのだから、やる。カピターレ東京にはそんな者たちが集まっている。そんな者たちとのサッカー。そりゃ、やりたくなる。
 去年から、クラブはよその大学卒の選手も受け入れるようになった。今年はついに元プロ選手も入った。フォワードの梅津新哉だ。
 新哉は、二年間、J2のクラブにいた。レギュラーとまではいかなかったが、試合には出ていた。その二年で五点ぐらいはとっている。契約満了で退団した。そのとき二十八歳。引退するしかねえか、と本人は思ったという。そこで立花さんが声をかけたのだ。ワントップもこなせる新哉ならチームの力になってくれるだろうと。
 関東サッカーリーグ一部のチームからも声はかかったらしいが、新哉はウチを選んだ。東京、というところに惹かれたらしい。うそかほんとか知らないが、こんなことを言っていた。おれ、新宿が好きなんすよね。ゴールデン街とか。だからカピターレに決めました。
 新哉のワントップでいく構想もあったようだが、同じく新入団の圭翔が思いのほかよかったので、監督はその二人のツートップを採用した。圭翔はすでに二点とっているが、新哉はいまだ無得点。どうもフィットしない。気が強い新哉は、試合中でも時おり苛立ちを見せる。チームメイトに文句を言いはしないが、感情をあらわにはする。周りの動きが自身のイメージとちがうのかもしれない。
 監督やコーチの桜庭さんやマネージャーの細川真希も含め、明日はほぼ全員が仕事。いつものように、チームはその場で解散した。初めての負け試合。軽く飲みにでも行きたいところだが、そうも言ってられない。おれも明日は仕事なのだ。たとえ休みでも、行かないだろう。ただでさえ、綾に受け入れられてない。そのうえ飲みはない。
 チームに既婚者は少ない。立花さんと監督と桜庭さんと成島さんはそうだが、選手では二人。おれと右サイドバックの智彦だけだ。
 智彦は今二十六歳だが、結婚歴はおれより長い。社会人一年め、二十三歳のときに結婚したのだ。大学生のときから付き合っていた相手と。奥さんは、智彦がカピターレ東京でプレーすることを受け入れているという。応援しているという。まず、サッカーが好きらしい。くわしくはないがサッカー好き。クリスティアーノ・ロナウドはカッコいいよね、でも何だかチャラそうだからわたしはイブラヒモヴィッチさんのほうが好き、だそうだ。その程度でよかったですよ、と智彦は言う。あそこであのオーバーラップはないでしょ、とか、あんたクロスの精度が低いのよ、とか嫁に言われるのは、さすがにキツいですもん。
 では綾はどうかと言うと、サッカーのことはほとんど何も知らない。初めからそうだった。一チームが十一人であることさえ知らなかった。だからイレブンていうんだ? と言った。それでいいとおれも思っていた。夫と妻、趣味嗜好はちがうほうがいいと。
 そんな綾と、これまではうまくやってきた。ぶつかる要素がなかった。綾もサッカー好きだったら、そんなチームから声がかかるなんてすごいじゃない、と言ってくれたのだろうか。やりなさいよ、と快く背中を押してくれたのだろうか。わからない。背中を押してくれたような気もする。それはそれ、これはこれ、と考えていたような気もする。そのあたり、女性はシビアだ。現実を見る。先も見るが、先は現実から推測する。対して男は、まず先を見る。先に、現実を合わせようとする。
 みつば南団地の自宅には、午後八時に着いた。自分のカギで玄関のドアを開けて入り、三和土でスニーカーを脱いで向きをそろえる。スポーツバッグから出した汚れものは洗濯機に入れた。
 背番号4、左胸にエンブレムがついたカピターレ東京のユニフォーム。上は白で下は黒。ドイツ代表っぽい。それは明日綾に洗わせることになる。今週は月曜と金曜が綾の休みだから。
 明日の朝、おれが仕事に出たあとで洗濯にとりかかる綾の顔を想像する。そのユニフォームを手にとる。眉をひそめる。またすぐに洗濯槽に投げこむ。何なのよ、くらいのことはつぶやく。
 シフトが早番なので、綾はすでに帰宅していた。台所で夕食をつくっている。
「ただいま」とその背中に言う。
「おかえり」と言ってから、綾はチラッとこちらを見る。
 ほっとする。見てくれるだけましだ。わたし、どんなにいやな相手にでもあいさつだけはするの、と綾が言っていたのを思いだす。会社で折り合いがよくない相手にも必ず自分からあいさつをするのだという。それを聞いて、ちょっとうれしかった。おれも同じだから。
 和室に行き、部屋着のジャージに着替えた。サッカーを始めた小一のときから、部屋着はずっとジャージだ。練習着もジャージで、部屋着もジャージ。ちゃんと着替えなさい、とよく母親に言われた。大して汚れてもいないのに着替える意味がわからなかった。だが言われるから着替えた。ジャージからジャージへ。今も、まあ、それに近い。
 それから洗面所に行き、うがいと手洗いをすませた。台所経由で居間に戻る際、こちらを向いて皿にサラダを盛りつけていた綾に言う。
「負けたよ」
「そう」
 目は合わない。おれ自身、無理に合わせようとはしない。サラダに入れられたコーンの粒を見る。真っ黄色の財布が好きな立花さんの奥さんはコーンも好きなのかな、と妙なことを思う。
「おれのミスで点をとられた」
 綾が手を止めておれを見る。
「そのせいで、負けた」
 そうなの、という感じにうなずいて、綾はサラダの盛りつけに戻る。言葉は発さない。発するとしたら、何だろう。だからやめとけばよかったのに、だろうか。もっと単純に、いい気味、だろうか。
 おれはそのまま居間に行き、ソファに座る。見たいものがないので、テレビはつけない。が、やはりつける。音がないと気づまりだから。そういえば、綾はテレビをつけなくなったな、と思う。前は一人で夕食の支度をするときもつけていた。見るのでなく、音を聞く感じで。いつからつけなくなったのか。今日はたまたまつけていないだけなのか。そんなことさえ、わからない。
 NHKの大河ドラマ。その音を聞きながら、隣の和室を眺める。夫婦の寝室だ。六畳間。腹筋や背筋、それにストレッチなんかがやりやすいから、おれが和室ありの物件を望んだ。結果、ベッドでなく、フトンになった。
 そうなってよかった。これが例えばセミダブルベッドなら、よくないことになっていたかもしれない。おれは毎晩、居間のこのソファで寝ることになっていたかもしれない。フトンだから、どうにかなった。それぞれのフトンをちょっと離すだけ。部屋から出るようなことにはならなかった。この先はわからないが、少なくとも今はなってない。
「できた」と台所から綾が言う。
 三文字。三音。短い。だが意味は伝わる。
「ああ」とおれも言う。
 二文字。二音。さらに短い。


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
●エピソード一覧へ

<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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