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夫ではない男性と二人きりで映画館へ……(『それ自体が奇跡』第6話)

ゲキサカ / 2017年12月25日 20時0分

夫ではない男性と二人きりで映画館へ……(『それ自体が奇跡』第6話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


共感の六月

 映画は久しぶりに観る。有楽町にある映画館。主にミニシアター系のものを上映するところだ。銀座の店から近い。でもしかたない。ここでしかやってなかったのだ。亮介が観たいというその映画が。
 そう。天野亮介。お客さま。パンツの採寸ミスの。
 あのあと、亮介は再び来店してくれた。翌金曜の閉店三十分前に。
「今日は無理かと思ったけど、どうにか間に合いました」と笑った。
「すみません。何度もご足労をかけてしまって」と謝った。
「いえ。会社から近いんで。むしろこのパンツへの期待が高まりました」
 すぐにパンツを穿いてもらった。そして慎重に裾に針を刺した。その状態で靴を履いてもらい、少し歩いてもらった。
「長さはよろしいですか?」と尋ねた。
「さすがに慎重ですね」と言われた。
「もう失敗は許されませんから」
「いや、そんな。僕は許しますよ」
「わたし自身が許しません」
 亮介は笑った。ほっとして、わたしも少し笑った。パンツを脱いでもらい、さらに慎重に股下丈を計った。ぴったり八十センチだった。そこにまちがいはなかったのだ。
「八十センチですね」とわたしは亮介に言い、再度確認した。「よろしいですか?」
「はい。やっぱり八十センチでよかったんですね」
「すみません。結果として、無駄に来ていただいたことになってしまいました」
「無駄じゃないですよ。ちゃんと対応してもらったことでの満足感のほうが大きいです」
「では八十センチで直させていただきますね」
「お願いします」
「今回は、ちゃんと80と書きました」と冗談気味に言った。
「ほんとだ。だいじょうぶです。僕も確認しました」と亮介も冗談気味に返した。
「本当に申し訳ありませんでした。八十センチで裾上げさせていただいて、確実にお届けします」
 裾上げが終わったら連絡してもらい、股下丈が八十センチに仕上がっているかを自分で確かめるつもりだった。そのうえで、箱詰めし、伝票を書き、配送に出す。その先、配送業者さんのことは、信じるしかない。
「あ、そうだ。これ、言おうと思ってたんですよ」と亮介が言った。「こないだ、ここであの短いパンツを穿いたとき、これで帽子をかぶってステッキを持ったらチャップリンだって言ったじゃないですか」
「はい」
「あれ、ちがってました」
「はい?」
「調べたんですよ、ネットで。そしたら、チャップリンのパンツの丈はそんなに短くないことがわかりました。絵なんかでそんなふうに描かれてるのもあるんですけど、実際には短くないんですよ。狭まってはいるけど短くはない。何ならむしろ長いくらいで」
「あぁ。そうなんですか」
「はい。イメージで勝手にそう思ってたみたいで。僕、チャップリンはわりと好きで、映画もほとんど観てるのに、そう思ってました。案外ちゃんと見てないものなんですね。反省しましたよ。と、まあ、店員さんにわざわざ言うことでもないですけど。この前、そう言っちゃったんで、まちがいは正しておきたいなと。これですっきりしました。忘れてください」
 笑った。忘れないだろうな、と思った。自分から言った。
「わたしもチャップリンは観たことがありますよ」
「ほんとですか。何観ました?」
「『キッド』と、あとは『街の灯』」
「あぁ。どっちもいいですね。悲しい話だけど、おかしさも溶けこませてある。というか、悲しさとおかしさを分けないところがうまいですよ、チャップリンは。僕もその二つは好きです」
 わたしのパンツ採寸ミス事件は、それで解決を見た。また丈が短いんですけど、と亮介が三たび来店することも、パンツが届かないんですけど、と店に電話をかけてくることもなかった。配送後一週間で、問題はなかったようだな、と思い、次の一週間で、この件自体を忘れた。が、その一週間後に、思いだすことになった。亮介が来店したのだ。
 土曜日だった。しかも、午前十時の開店直後。わたしはエスカレーターのわきにいた。上ってこられるお客さまをお迎えする位置だ。このフロアに来られるかたにも上の階に行かれるかたにも、おはようございます、いらっしゃいませ、と声をかけ、頭を下げる。ウチはそれを開店から五分間やることになっている。すべてのフロアで、各売場の社員がそれをやる。時には人手が足りなくて販売員さんにお願いすることもあるが、なるべく社員がやるよう上からは言われている。
 そのエスカレーターで、男性客がやってきた。それが亮介だった。お互い、ほぼ同時に気づいた。
「あっ」と亮介は言い、
「おはようございます。いらっしゃいませ」とわたしはやや早口で言った。
 亮介はエスカレーターから少し前に進み、立ち止まった。
「おはようございます。よかった。いきなり会えるとは思いませんでした。レジのほうを探してみるつもりだったんですよ」
 あのパンツのことで何か? と言おうとして、気づいた。そのパンツを、亮介が穿いていたことに。
「あ、気づいてくれました? 穿き心地、すごくいいです。股下の長さもちょうど。気に入ったんで、よく穿いてますよ」
「お似合いです。そう言っていただけて、わたしもうれしいです」
「今日はちょっと夏ものを見たいなと思って」
「それでお越しいただいたんですか?」
「はい。何なら二本ぐらい買いますよ」
「ありがとうございます」
「できればまた田口さんに見てもらいたくて。同世代の女の人に選んでもらうのが一番なんですよね。僕自身が選んだものより、そうやって人に見立ててもらったもののほうが、周りからの評判がいい」
「わかるような気がします。自分で客観視するのは難しいですもんね」
「まさにそれです。自分にいいように見ちゃうんですよね。ということで、お願いできますか?」
「喜んで」と、居酒屋さんのようなことを言ってしまう。
 すでに十時五分を過ぎていたので、エスカレーター前を離れ、亮介と二人、ジャケットとパンツのコーナーに向かった。
「土曜日でも、開店してすぐならまだ空いてるかと思って」
「おっしゃるとおりです。今日はお仕事、ではないですよね?」
「ですね。休みです」
「ご自宅から来ていただいたんですか」
「はい。ちょっと早く目が覚めたんで、じゃあ、行っちゃおうと」
 亮介の自宅は江東区だ。配送伝票にそう書いてあった。近いといえば近い。貢のサッカークラブの事務所も、同じ江東区にある。
 売場では、自由に見てもらった。亮介が求めてきたときに意見を言う。そのくらいにとどめた。正直、わたしに特別な知識やセンスがあるわけではないのだ。もう長く紳士服部にいるというだけ。結婚後に貢が着る服を選んできたという程度。
 亮介はまず柄ものを一本選んだ。チャコールグレーのチェック柄だが、ラインは薄いので、柄ものとの印象はそう強くない。
「もう一本は無地にするつもりですけど。どんなのがいいと思います?」
 わたしはカーキ色のものをすすめた。夏ものとあって、濃くはない。グレーっぽいが、よく見ると緑も感じさせる。そんな色合い。
「いいですね」と亮介は言ってくれた。「うん。この二本の取り合わせは悪くない」
 そして試着し、どちらも買うことを決めた。一応、二本とも針を刺し、股下丈を計らせてもらった。柄もののほうは八十センチ、無地のほうは八十・五センチだった。
「あ、ちがうんですね」
「それぞれ仕立てがちがいますから、多少は変わってきます」
「そうか。靴もそうですもんね。いつもは二十六センチでも、ものによっては二十五・五だったり、二十六・五だったり」
 それで買物は終わりかと思ったが、亮介はさらにこんなことを言った。
「このパンツ二本どっちにも合うようなジャケットだと、どれですかね」
 そこではライトグレーのものをすすめた。軽くて通気性もいい。でもおじさんくさくない。これなら貢にもいいかも、と思った。
「薄いグレーか。サマージャケットはブルーっぽいものが多いからちょっと敬遠してたんですけど。これはありだな」
「柄もののパンツとは同系色ですけど、濃さがちがいますし、ジャケットは無地なので、合うと思いますよ」
「決めた。買います」
「え、ほんとですか?」とつい言ってしまった。店員なのに。
「せっかくの機会を無駄にしたくないですよ。思ったより値段も安くすんだし」
 そのジャケットも実際に着てもらった。試着室の外でだ。
「お袖を直す必要はなさそうですね。ちょうどいいです」
「袖も、直したりするもんですか?」
「ええ。同じ身長でも、手の長さは人によってちがいますし。左手と右手の長さがちがうかたもいらっしゃいますよ」
「なるほど。ぴったり同じ人のほうが少ないのかもしれないですね」
 亮介がジャケットを脱いだ。わたしはそれを受けとり、パンツ二本とともに、自分の左手に掛けた。亮介がわたしを見て、言った。
「田口さん」
「はい」
「映画を観に行きませんか?」
「はい?」
「チャップリンを観たことがあるとおっしゃってたので、どうかと」
「あぁ」
 唐突な誘い。さすがに驚いた。
「えーと、それは」
「あ、でもあれですよ、パンツもジャケットも買うからその代わりに、なんてことじゃないですよ。初めからそのつもりで来たわけでもないし。ただ、ふと思って、言っちゃいました。映画の趣味が合う人は周りにあまりいないんで」
「あの、観たことがあるというだけで、わたしも、チャップリンがすごく好きというわけでは」
「僕もです。好きななかの一つという感じです」
「わたし、何というか、結婚もしてますし」
「あぁ、そうですか」と亮介は意外そうに言った。
 わたしが結婚していたことが意外、というのでなく、わたしが今ここでそれを言いだしたことが意外、という感じだった。
「一応言っておくと、僕は結婚してません。今は彼女もいないです」
 わたしはいつも結婚指輪をしていない。だから声をかけられたのかと思ったが、そういうことでもないらしい。指輪をしないことに大した意味はない。貢とギクシャクするようになって外した、ということではまったくない。何となく邪魔になるから。その程度の理由だ。ちなみに、貢もしていない。何と、日本サッカー協会が、安全面の理由から試合中の貴金属類の装着を禁止しているのだ。だからつけたり外したりするのがめんどくさくて、と貢は言っていた。それでなくすのもこわいしさ。
「すいません、いきなり変なことを言って」と亮介は謝った。「無理ならいいです。忘れてください」
 チャップリンのパンツの丈の件と同じ。忘れないだろうな、と思った。自分から言った。
「行くなら、ご連絡はどうすればいいですか?」
「電話をください。番号はわかりますよね、配送伝票で」
 個人情報の目的外利用になるだろうか。と、そんなことを考えた。なるといえばなる。ならないといえばならない。お客さまご承知、とわたしはつぶやいた。心のなかで。
 そして今。わたしは映画館にいる。右隣には天野亮介が座っている。
 店までは、歩けば十分。たぶん、距離は一キロもない。店には今日も貢がいる。わたしだけが休み。亮介は、土曜日に出勤した分の代休をとったという。近いとはいえ、貢の存在は感じられない。そこが東京の東京たるところだ。狭いが広い。密度が狭さを打ち消してくれる。結果、広い。
 不思議と罪悪感もない。わたしも好きにするから、と貢には言った。貢が居間で掃除機をかけてたときにだ。貢は聞こえないふりをしたが、たぶん、聞こえていた。その直前に、サッカーはこの一年だけにしてねと言ってもいたのだ。わたしに注意を向けてなかったはずがない。
 こうなることを想定してああ言ったわけではない。ああ言ったからこうするわけでもない。別にごまかすつもりもない。決していいことではない。普通、妻が夫以外の男性と二人で映画を観には行かない。でもいいだろう、と思う。休日に映画を観る。隣には夫でない男性が座っている。ただそれだけの話。一線を越えるつもりはない。文字どおりの、お付き合い。
 初めこそ、そんなことをあれこれ考えていたが、じき映画に集中した。アイルランド映画『豚と恋の村』。これが意外におもしろかった。アイルランドの地方都市。そのなかでもさらに農村。豚を飼育している農家の話。
 早くに妻を亡くしてやもめとなった父親の花嫁を見つけようと、十歳の息子が奮闘する。自分が通う学校の先生。村にある食料品店の娘。首都ダブリンから農工具のセールスに来た女性。車でただ村を通りかかっただけの女性。少年はありとあらゆる女性に声をかける。父親を無理やり紹介しようとし、ことごとく失敗する。その様子が、農村の日常と絡めてコミカルに描かれる。
 配達に来た食料品店の娘を捕まえようと掘った落とし穴に、飼育している豚と父親自身が落ちるシーンでは、声を出して笑った。派手な事件は起こらないところがよかったし、緑がきれいなアイルランドの風景もよかった。
 最後、父親は、いつもケンカばかりしていた隣家の娘と結ばれる。同じく農家の娘。自分たちも飼っているにもかかわらず、豚を飼ってる家の女の人はいやだなぁ、と少年が候補から除外していた相手だ。
 秘密裏に進めていたはずの少年の花嫁探しは、父親から見ればバレバレだった。父親は父親で、母親を求める少年の心情を察していたのだ。そして隣家の娘への自身の想いも変化したことに気づいた。いや、変化したのではなく、初めから想っていたのだと。
 ラストシーンは、父親と隣家の娘の結婚式。キスを交わす二人のわきで、少年はこうつぶやく。
「飼う豚が、増えたよ」
 おもしろかった。心を大きく揺さぶられる映画ではなかったが、さわさわと揺すられる映画ではあった。貢と一緒に観ることはなかった類の映画だ。
 結婚してからはあまり行かなくなったが、付き合っていたころは、貢とよく映画を観に行った。映画かテーマパーク。それが定番。手軽さと料金の安さということで、やはり映画が多かった。
 食べものや服と同様、貢は映画にもこだわらない。話題作ならたいてい観たいと言うし、それでいて、無理に観ようともしない。邦画よりは洋画のほうが好きだ。きちんとお金をかけたアクションもの。わたしと行くときでも、その手を選ぶ。何ならわたしもその手が好き、くらいに思っている。
 だからかもしれない。『豚と恋の村』は新鮮だった。映画、おもしろいな、と思った。こんなふうに日常と地つづきな話がわたしは好きなのだな、と、三十にして気づいた。亮介がいなければ気づけなかったこと、わたしが股下を80と正しく書いていれば気づけなかったことだ。
 ヴァイオリンとバンジョーとアコーディオン。軽快なのに上品なアイルランドの音楽に乗ってエンドロールが流れ、映画は終わる。館内の照明がつく。あらためて、すぐ隣に亮介がいることを自覚する。
「どうでした?」と訊かれ、
「すごくおもしろかったです」と答える。
「僕もです。上半期ではベストかもしれない」
「そんなに映画を観るんですか?」
「こうやって映画館に来るのは月に一度ぐらいですかね。ネット配信なんかで観てますよ。でもやっぱりスクリーンで観るべきですね。わざわざ時間を合わせて来る分、集中して観られる」
「ちょっと停めて休憩、とかはできないですもんね」
「はい。これ、ブルーレイが出たら買っちゃうかもしれないな」
「わたしも」
「僕が買ったら、貸しますよ。二枚買うのはもったいない。さて、行きますか」
 席を立ち、その回最後の退場者として、映画館を出た。午後一時半。混雑のピークは過ぎたという意味で、ちょうどいいランチタイム。
「何食べます?」と亮介が言い、
「何でも」とわたしが言う。
「コーヒーも飲めるところがいいな。パスタでもいいですか?」
「はい」
「映画のあの子が、スパゲティをフォークでクルクルやって食べてたじゃないですか。あれを見て、食べたくなりました」
「それを聞いて、わたしも食べたくなりました」
 ということで、イタリアンになった。ビルの地下にある、カジュアルなイタリアンレストランだ。亮介はアラビアータ、わたしはボンゴレを頼んだ。トマトソースをつかったビアンコではなく、ロッソのほう。
「スパゲティ、お好きなんですか?」と尋ねてみる。
「好きですけど、特にというわけでは。僕は何でも好きなんですよ。和でも洋でも中華でも。ご飯でもパンでも麵でも」
 そのあたりは貢と同じだ、と思う。いちいち貢とくらべるのはやめよう、とも思う。
「食べもの全部のなかで一番好きなのは、結局メロンパンですけどね」
「そうなんですか?」
「はい。子どものころから好きで、大人になったら変わるかなぁ、と思ったら、変わりませんでした。ほかに好きなものは増えたけど、どれもメロンパンにはかなわない。不動の一位です」
「チョコチップメロンパンとか、おいしいですもんね」
「僕はあれはダメなんですよ。何ていうか、気が散るんですよね」
 笑った。気が散る、というのはいい。言わんとすることが何となくわかる。
「チョコはチョコで別に食べるからいいよ、と言いたくなります」
「じゃあ、ホイップクリームが入ったメロンパンもダメですか」
「そう言っておいてこう言うのも何ですけど、あれは好きなんですよ。外も甘い。なかも甘い。メロンパンにホイップクリームを入れちゃうなんてダメな商品だなぁ、と思いつつ、やられます。そこまでやるならしかたない、抗えない、という感じかな。でも基本、普通のが好きです」
 サラダに続いて、スパゲティが運ばれてくる。亮介がいただきますを言うので、わたしも言う。食べる。
「アラビアータは初めて頼みました。結構辛いですね。うまいけど」
「メロンパンとくらべて、どうですか?」
「答えるまでもないですよ。メロン、圧勝。二十九年一位できたものは、そう簡単に負けません」
「天野さん、二十九なんですか?」
「はい」
「歳下なんですね。わたしは、次の誕生日で三十一。ショックです。二つも下とは」
「僕、老けてるんですかね」
「いえ。落ちついてるんですよ」
「うまく言い換えますね」と亮介が笑う。「僕も驚きましたよ。田口さんは、同じぐらいか、ちょっと下だと思ってた」
「それも、うまいですね」
「ほんとにそう思ってましたよ。デパートの人は若く見えるんですね」
 そんなことはない。早く老けてしまう人もいる。二十代後半で化粧が異様に濃くなる人もいる。たくさんいる。
「天野さんは、子どものころ、デパートに行きました?」
「行きましたね。母親が好きだったんで、よく連れていかれました。どこか地方都市に行くと、まず駅前のデパートに入ってみる。そんな感覚なんですよね、僕の親世代は」
「あぁ、そうかも」
「だから今も、何か、行っちゃうんですよ。量販店に行くぐらいならデパートに、という感じで。結局、華やかな場所が好きなんでしょうね。虫みたいなもんかな、明るいところに引き寄せられるっていう」
「虫って」とつい笑う。
「デパートは地下まで明るいじゃないですか。それはやっぱりいいですよ。で、散歩のつもりで歩いてるうちに、パン屋さんでパンを買っちゃう。田口さんのお店でも、行くたびに買ってます。メロンパンではベストかも。サックサクでうまいんですよ。正直、ちょっと高いけど」
「そういうかたがもっと増えてほしいです」
「僕らの世代だと少ないですもんね、デパートで買物をする人は」
「はい。残念ながら」
「田口さんはどうでした? 子どものころ、行きました?」
「行かなかったほうでしょうね。母親も、大型スーパーの婦人服で充分てタイプでしたし」
「でも田口さん自身は、デパートに入社したんですね」
「そうですね。仕事がわかりやすそうだったので、わたしにもできるかと思って。できませんでしたけどね。股下80を、70と書いちゃいましたし」
「もう忘れましょうよ」と亮介は笑う。「それを言われると、自分がそれをネタに田口さんを脅して映画に連れ出したような気になります」
「すみません。そんな意味では」
「ついでに訊きますけど。田口さんは、もとから田口さんですか?」
「はい?」
「結婚して、田口さんになられたんですか?」
「あぁ。そうです。もとは滝本でした。結婚して田口。夫も同じ会社です」
「ということは、ご主人もあの建物に?」
「はい。どちらも担当は売場なので」
「その売場まで同じってことは、ないですよね?」
「それはないです。婦人服にいますよ。夫が婦人服で、妻が紳士服」
「ほかにも結構いらっしゃるんですか? ご夫婦でというかたは」
「多くはないけど、いますよ。周りの人たちは気をつかうかもしれませんね。どちらかの前でどちらかの悪口は言えないですから」
 店で貢の悪口を聞いたことはない。ほかの人の悪口なら聞いたことがあるが、貢のはない。だから誰にも悪口を言われてない、とは思えない。わたしだって言われているはずだ。反対に、人が貢をほめているのは耳に入ってくる。たいていはわたしの前で直接ほめる。田口くん、がんばってるね、とか、サッカーうまいらしいね、とか。仕事のことよりはサッカー絡みのことのほうが多い。
 空いたお皿が下げられ、食後のコーヒーが運ばれてくる。亮介は砂糖とミルクをわりと多めに入れる。わたしはミルクを少しだけ入れる。
 迷った末、わたしは亮介に貢のことを話す。貢がサッカーをやっていたこと。今もやっていること。大学時代はキャプテンであったこと。会社でも部に入ったこと。その部が去年つぶれてしまったこと。でもそれをきっかけにプロを目指すチームから声がかかったこと。わたしに相談せず、入団を決めてしまったこと。その件でちょっとギクシャクしていること。いや、ちょっとじゃなく、かなりギクシャクしていること。何だろう。思いのほかスラスラ言えた。訊かれたので、カピターレ東京というそのチーム名まで明かした。
「男の人は縦のつながりに弱いんですかね」と亮介に言う。「学校の先輩だの何だのって」
「大学の体育会なら、それも少しはあるかもしれません。人によるとは思いますけどね」
「もう三十一歳ですよ。自分がプロになれるわけでもないのに、本気でサッカーをやります?」
「プロにならなきゃいけないなら、むしろやらないんじゃないですかね。プロになるなら、そのときは仕事をやめなきゃいけないだろうし」
「それはそうですけど」
「単純にサッカーをやりたいんじゃないですか? スポーツをやってなかった僕が言うのも何ですけど、うまい人が高いレベルでやりたくなるというのは、わかる気がしますよ。映画だって、いいものを観たらもっといいものを観たくなるし。興味とか熱意っていうのは、そんなふうにして続いていくんじゃないかな。続けようとしなくても、勝手に続いちゃうんですよ」
 勝手に続いてしまうのなら、ちょっと厄介だ。もう三十一歳なのだから、どこかで断ち切る気概も必要だろう。三十一歳を控えたわたしはそう思ってしまう。
「天野さんは、どんなお仕事をなさってるんですか?」
「普通の会社員ですよ。文具会社の企画広報課というところにいます」そして亮介は社名を挙げた。有名な文具会社だ。「本社は京橋です」
「あぁ。だから近いんですね」
「はい。歩いて五分ぐらいです」
「企画広報って、何をなさる部署ですか?」
「何でもやりますよ。広報に宣伝、それに販促的なことまで。課名は、あってないようなもんです。雑誌に広告を載せたり、新製品が出たら、営業とはまた別に企業や学校にPRに出向いたり。ほんと、いろいろです。ウチの会社は、若い社員にもわりと権限を持たせるんですよ。その代わり責任も持たせますけど」
「ボールペンを、よくつかわせてもらってます」
「そうでしたね。売場でもつかっていただいてました。僕が配送伝票を書くのにつかったのもウチのボールペンでしたよ」
「あぁ。そういえばそうだったかも」
「会社さんにまとめて納品できるのは営業担当者が努力してるからですけど、でもそこに持っていくには、やっぱり社名や商品名を常日頃から知っといてもらわなきゃいけない。そのために僕なんかが動いてる感じですかね」
 なるほど、とわたしは小刻みにうなずく。
「これからもウチの製品をよろしくお願いします。デパートさんも、田口さんご自身も」
「こちらこそ、よろしくお願いします。つかわせてもらいます」
 午後二時半。お店はさらに空いてきた。食事をしているお客さんはもうほとんどいない。それでも何人かは新たなお客さんが入ってくる。カフェとして利用されてもいるらしい。
「コーヒーをもう一杯どうですか?」と亮介が言う。「僕は飲みたいですけど」
「じゃあ、わたしも」
 ということで、お代わりを頼んだ。今度はエスプレッソにした。カップが下げられ、新たなカップが運ばれてくる。亮介は砂糖を少しだけ入れる。わたしは何も入れない。
 貢が来たりしないだろうな、と、ふと思う。たまには、上司や営業さんと打ち合わせがてら外に出ることもあるらしいのだ。来たら来たでいいかな、とも思う。連れがいたらいやだが、一人ならいい。わたしは大してあせらないような気がする。何なら隣のテーブルに貢を招くかもしれない。そして亮介を紹介するのだ。お世話になってるお客さま、と。
「カピターレ」とその亮介が言う。「イタリア語ですよね。もしかして、首都って意味ですか?」
「そうらしいです」
「カピターレ東京。いい名前だな」
「そう、なんでしょうか」
「覚えやすくて、親しみやすいですよ。半濁音のピがいいのかな。発音したくなるし、意味を知りたくもなる。言われてみれば、東京の中心部にプロのサッカーチームはないんですね。野球チームは二つもあるのに」
「その二つがあれば充分てことじゃないですか?」
「野球とサッカーはファン層がちがいますよ。両方好きな人も多いけど、好きの度合いはちがうんじゃないかな」
「東京にチームができたとして、人気、出ますか? サッカー以外のものがもう何でもあるのに」
「強くて魅力的なチームなら、たぶん、人気は出ますよ。ブランド戦略が大事でしょうね。その意味では、大学を基にしたっていうのはうまいやり方だと思いますよ。ご主人が出られた大学ならブランドとしての価値は充分です。結局、人はブランドが好きですからね。特に東京の人は。だから、都知事にも有名な人ばかりがなるんだろうし」
 亮介がエスプレッソを飲む。わたしも飲む。苦い。でもおいしい。
「カピターレ東京、強いんですか?」と訊かれる。
「今四位とか、そのくらいです」と答える。「まずはリーグ戦で三位になる必要があるみたい。それでナントカいう関東の大会に出て、そこで二位になれば一つ上のリーグに行ける」
「リーグ三位だけじゃダメなのか。キツいですね」
「今年はそうらしいです」
 正直、興味はない。どうでもいい。が、やはり調べてしまう。店で誰かに訊かれたときに、知りません、と答えるのも印象が悪いので。
「チーム、ここまではすんなりきてるんですか?」
「東京都の四部から始まって、一年で一つずつ上がってるみたいです。それで、今が一部」
「毎年、各リーグで一位か二位になってきたということですよね?」
「たぶん」
「それはすごいな。まあ、上を目指すチームはそこで足踏みをしてられないんでしょうけど。そんなチームに声をかけられたんだから、ご主人はかなりいい選手なんですね」
「どうなんでしょう」
「カピターレ東京。おもしろいな」
「おもしろい、ですか?」
「おもしろいですよ。例えばサッカーチームのユニフォームの胸にウチのロゴマークが入ってたらおもしろいと思いませんか? 文化系と運動系。でも運動系の人たちだって、筆記具はつかいますからね。そこへのこだわりはなさそうな分、いいアピールになるかもしれない。うまくとりこめるかもしれない。田口さんは、試合を観に行ったことあります?」
「いえ、ないです」
「一度もですか?」
「はい。試合は日曜なので、行けないんですよ」
「あぁ、そうか。デパートですもんね。ご主人は、休まれるわけですか」
「そうですね。よくないことを言われてなきゃいいけど」
「言う人は言いそうですね」
「はい」
 まずわたし自身が言っている。三十一にもなって何をしているのかと。店でではなく、家で。いや、最近は家ででもなく、心のなかで。
「でもすごいですよ。仕事のほかにそんなこともやってるなんて尊敬します」
 わたしなら、そこできっぱり身を引ける人こそを尊敬します。
 とは言わない。
 言いたいけど。


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)

<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
■kindle版の購入はこちら

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