夫がサッカーするなら、妻も本気出します(『それ自体が奇跡』第11話)
ゲキサカ / 2017年12月30日 20時0分
30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!
店には、催事場とはまた別にイベントスペースがある。そこでは展覧会をやったりする。美術展だけでなく、もっとくだけたアニメ展や映画展をやったりもする。ものによっては、千円程度の入場料をとる。ただ、展示内容は微妙なことが多い。
それではダメだ、ということで、店としてそのイベントを強化することが決まった。展覧会の質を高め、より有意義な情報を発信していこう、となったのだ。そして十月の異動を前に、イベント企画プロジェクトチームなるものが立ち上げられることが決まった。ベースは販売促進課のなかの企画係だが、人員を増やすことにしたらしい。
新プロジェクト、しかも内容が内容なので、社内から希望者を募るという。現在の所属は問わない。売場であろうと外商であろうと関係ない。性別も年齢も関係ない。条件は社員であることのみ。
従業員通用口のわきと社食のわきに設置されている掲示板に、その通知が貼られた。初めは何とも思わなかった。転居したら届は早く出せだのマイナンバーは他人に明かすなだのといったいつもの通知と同じ感じで読んだ。従業員通用口のわきで一度。社食の出入口で一度。その二度めは、ちょっと時間をかけて読んだ。でもそれだけ。その場でどうということはなかった。
その後、帰りの下り電車に乗っているときにそのことを思いだした。新プロジェクトのメンバーに選ばれると、販売促進課に異動することになるらしい。そしてイベントスペースにおける催しの企画運営専従員として動く。制服組でなくなる。これまでわたしは、紳士服部にしかいたことがない。そのなかでちょこちょこ動いただけだ。靴、洋品、そしてカジュアル。ガラリと環境が変わるような異動はしたことがない。
イベント。新プロジェクト。募集。ちょっと心が動いた。自分が惹かれているのを感じた。高卒。紳士服以外は未経験。しかも三十一歳。応募したところで通らないとは知りつつも、惹かれた。やってみたいな、と思った。貢が好きにしたから私も好きにする。そういうことではない。意趣返しなんかでは、まったくない。ただ動きたかった。自分で何かをしたかった。
まず初めに、わたしは柴山マネージャーに相談した。新プロジェクトのメンバー募集に手を挙げたいんですけど、と言ってみた。
「ほんとに?」と柴山さんは驚いた。「何でまた急に」
無理のない反応だ。適当に、とは言わないが、まあ、ここまで無難にやってきた。人事評価は、低いこともないが高いこともないだろう。
「やってみたいなぁ、と思って」とわたしは言った。「知識も経験もまったくないんですけど」
「そんなのはあとからどうにでもなるからだいじょうぶ。でも、本当に、本気?」
「だと思います。じゃなくて、本気です」
売場の奥にある狭い事務所。デスクは三つ。マネージャー席と端末操作用の席とその他作業用の席。その事務所に柴山さんと二人きり。もちろん、わたし自身がそのタイミングを狙った。
「ダメですか?」
「いえ、ダメなんてことはない。ただ、ちょっと突っこんだことを訊くわね。こんな時代だとセクハラになっちゃうだろうけど、大切なことだからあえて聞かせてほしい。子どもは、いいの?」
「あぁ」
「綾さんは今、三十一よね。仮に手を挙げて採用されたとする。それから一年二年で、子どもができたからやめます、もしくは休みます、ではちょっと厳しいと思うの。本当はそんなのダメなんだけどね、でも現実には、手を挙げといて何なんだって言われちゃう。下手をすれば、田口くんまで言われるかもしれない。じゃあ、何年続けたらいいのかってことになると難しいけど。二年は言いすぎかもしれない。でも一年だと、うーん、となっちゃうかな」
「それはだいじょうぶだと思います」
「そう?」
「はい。思いますじゃなくて、だいじょうぶです」
わたしの意思がどうこうじゃない。今のわたしと貢の関係を考えたら、さあ、子どもをつくりましょう、とはならない。現にここ数ヵ月そういうことはしてない。
「それと、もう一つね。これはマネージャーとして、一応、訊いておきたいんだけど」
「はい」
「売場に不満があるとか、そういうこと?」
「いえ、そうじゃないです」
「もしそうならそうでいいから、正直に答えてね。その答がどうであれ、綾さんの不利になるようなことはしない。それは約束する。今後の売場のためにも、事実を知っておきたいの。わたしの責任かもしれないし」
「そんなことじゃないです。まったくないです」
「麻衣子さんとはやりづらいとか、そういうことでもない?」
具体的な名前が出てきて、ちょっと驚いた。例えば奈良恵梨佳あたりが何か言ったのかもしれない。麻衣子さんほんとキツいですよぉ、とか。わたしは事実をありのままに言う。
「ないです、ほんとに。正直、やりやすいかと言われたらあれですけど、やりづらいなんてことはありません。そんなふうに見えますか?」
「見えない。綾さんはうまくやってる。って、これ、麻衣子さんを悪く言ってると思わないでね。麻衣子さんは麻衣子さんでよくやってくれてる。商品知識もあるし、事務能力も高い。仕事と子育てを両立してるんだからすごい。わたしなんかは本気で感心しちゃう」
わたしなんか。独身女性、ということだろう。柴山さんは四十一歳の今も独身。離婚歴があるわけではない。単に未婚。
「本当に、売場がいやだからじゃない?」
「ないです。もしそうなら、もっと早くにその件で相談してますよ」
「ならよかった。じゃあ、わたしのほうから販促に言っとくわよ。あとで何か書類を書いてもらうと思う」
「わかりました。よろしくお願いします」
柴山さんは最後に笑顔で言う。
「綾さん、ほんとにどうしたの?」
「どうしちゃったんでしょう」
「でもね、自分からそう言ってくれて、わたし、実はすごくうれしい」
「そう言ってもらえると、わたしもうれしいです」
「もっと自信を持っていいと思うわよ。綾さんにはお客さまを引きつける力がある。納得して商品を買ってもらうスキルもある」
「そんな。大げさですよ」
「大げさじゃない」
「今年は大きなミスもしちゃいましたし」
「パンツの裾上げのこと?」
「はい」
「でもそのお客さまがまた売場にいらしてくれてるわけでしょ? そんなこと、普通できないわよ。わたしでも麻衣子さんでもできない」
「それは大げさですって」
「だから大げさじゃない。わたしね、無駄に人をほめないようにしてるの。その代わり、ほめるべき人のことは本気でほめる」
その言葉はかなりうれしかった。お世辞だとしても。
で、予想どおりというか何というか、麻衣子さんからはあとでチクリと言われた。
「スキルも何もないのに手を挙げても、通らないんじゃないかな」
柴山さんが洩らしたのではない。販促から届けられた書類を、麻衣子さんが受けとってしまったのだ。別に隠すつもりもない。それはそれでよかった。
「わたしも通らないと思います」と麻衣子さんに言った。
「そう思うのに、応募するわけ?」
「はい。やってみたかったんで。麻衣子さんもどうですか?」
「わたしはいい。そういうの、興味ないし。二人に手を挙げられたら、紳士服部としてもいい迷惑でしょ」
新プロジェクトのメンバー募集に手を挙げたことを、貢には言わなかった。落ちたら恥ずかしいから、ではない。不確定な段階でわざわざ言うことでもないと思っているうちに、何となく言いそびれたのだ。もちろん、亮介にも言わなかった。できる人ぶりを見せつけたあなたのせいでもあるんですよ、と言ってみたい気はしたけど。
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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ
<書籍概要>
■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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