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夫ではない男と喫茶店で待ち合わせ(『それ自体が奇跡』第15話)

ゲキサカ / 2018年1月3日 20時0分

夫ではない男と喫茶店で待ち合わせ(『それ自体が奇跡』第15話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


痛感の十月
 三度めは、映画ではなかった。映画ではないのに三度めとカウントするのも妙な話ではある。でもわたしにしてみれば三度めだ。外で会うという意味での、三度め。
〈冬物のジャケットとパンツがほしいです。また見繕ってもらえませんか?〉
 亮介からそんなメールが来た。
〈喜んで〉
 そう返した。また居酒屋さんみたいに。
 わたしが常に売場に出てるわけではないと知っているので、日時はメールで打ち合わせた。わたしは自分の出勤日を伝え、時間は亮介に決めてもらった。水曜日の午後六時半になった。その時刻なら店も空いている。閉店まで一時間半あるから、ゆっくり選んでもらうこともできる。亮介も、水曜はノー残業デーなので早く出られるらしい。
 知り合いのお客さまが来店されることは、一応、柴山さんに言っておいた。レジ番のあれこれもあるので、念のため、麻衣子さんにも言っておいた。
「知り合いって、どういう知り合い?」と麻衣子さんには訊かれた。
「前にジャケットとパンツを買ってくれたお客さまです」と答えた。
「へぇ。綾さんご指名なんだ」
「わたしがパンツの採寸ミスをしちゃった人です」
「あぁ。その人がご贔屓にしてくれるんだ。やったじゃない」
「やりました」
「ジャケットとパンツを二セットぐらい買ってもらいなよ」
「言ってみます」
「でも男性のお客さまには近づきすぎないほうがいいわよ」
「気をつけます」
 亮介は亮介らしく、午後六時半ちょうどに来店した。わたし自身、上りエスカレーターの前にいたのだが、本当に六時半ちょうどに現れたので、驚いた。
「すごいですね。六時半。ぴったり」
「ご迷惑をかけたくないんで。あれ、来ない、と思いながら待たされるのが、僕はいやなんですよ。だから自分もちょうどに行くようにしてます」
「お客さまだから、いいんですよ。売場はずっと開いてますし」
「お客さんだからいいっていうのがいやなんですよ、僕自身がその偉そうなお客になるのが。お客だからいいと言うお客。そうはなりたくない」
「もしかして、接客業をなさったご経験があります?」
「昔カフェでアルバイトをしました。大学時代、この近くの『ルフラン』ていうカフェで。もうなくなっちゃいましたけど」
「だからですね」
「そうかもしれません。店員側というか、働く側の立場で考えちゃうんですよね」
「わかります」
 接客業をしていると、いろいろなお客さまにぶつかる。なかには信じられないことを言ってくる人もいる。何で値引きをしないんだ、とか、何で八時閉店なんだ、とか。横柄な人もいる。いきなり怒鳴る人もいる。男性に限らない。女性にもいる。知っているだけに、自分はそうなりたくないと思ってしまう。
 ジャケットとパンツのコーナーに着くと、亮介が言う。
「今日は先にジャケットを決めますよ。そのほうがパンツを選びやすいから」
「わかりました」
「最近、一つボタンのジャケットをよく見ますよね?」
「そうですね。カジュアルなものに多いです。タイトで丈も短めでっていう。女性ものに似た感じでしょうか」
「ビジネスにはあまり向かないんですかね」
「ボタンが一つだからダメということはないと思いますけどね」
「三つボタンのジャケットは、あります?」
「多くはないですけど、ありますよ」
「でもスーツのイメージになっちゃうのかな」
「そんなことはないかと。わたしは好きですよ、三つボタン。一番上のボタンの位置が高くなるから、襟が小さくなりますよね? あの小さい襟が、かわいらしく見えます。それこそチャップリンのイメージかもしれません。細身の天野さんにはお似合いだと思いますよ」
「チャップリン。その名前を出されたら、試さざるを得ませんね」
 そう言って、亮介はその三つボタンのジャケットを何着か選び、試着した。
「ツイードもそそられるけど、まあ、それは次回にして。これとこれなら、どうですか?」
 これとこれ。チャコールグレーと紺。
「紺のものをすでにお持ちなら、チャコールグレーがいいかと。で、次回が茶系のツイード。それでどうでしょう」
「あぁ、そうですね。次のツイード込みで、それですね。こっちにします。チャコールグレー」
「ありがとうございます」
 そしてパンツに移る。まず何か一つ選んでほしいと言われ、わたしはベージュのものを選んだ。わりと明るいベージュだ。
「ジャケットが濃いめなので、これはどうですか? 次の茶系のツイードにも合いそうですし」
「おぉ。これはいいです。決めます」
「もうですか?」
「はい。一応、ほかも見ますけど、これは買いますよ」
 実際、亮介はほかにもいくつか見た。グレー。ライトグレー。細かなストライプが入ったライトグレー。だが結局はベージュにした。
「わたしがおすすめしたからって、無理をなさらなくてもいいですよ」
「そうじゃなくて。やっぱりこれがいいです。最初見せられたときにストンときました。次のツイードも楽しみですよ。何なら今買っちゃいたいぐらいです」
 麻衣子さんに言われたことを思いだし、では今どうですか? と言いそうになった。とどまった。売る側なのに。
 試着室で亮介にパンツを穿いてもらい、裾に針を刺した。例によって靴を履いてもらい、歩いてもらう。
「長さはどうですか?」
「ばっちりです」
 脱いでもらう。そしてパンツを広げ、メジャーで股下丈を計る。
「八十・五センチですね。よろしいですか?」
「それでお願いします」
「ありがとうございます。承ります」
「股下、八十を七十と書いてもらってよかったですよ」
「はい?」
「おかげで映画を観られたし、今こうして有意義な買物もできます」
 おかげで、ということはない。せいで、と言うべきだろう。わたしが採寸ミスをしたせいで、今こんなことになっているのだ。亮介に何度も来店させた。買物もさせた。いい映画も紹介させた。夫への愚痴も聞かせた。夫のサッカーチームの支援までさせた。お支払いはカードでよろしいですか? という言葉を用意していたが、わたしは代わりにこんなことを言う。
「天野さん、このあと、お時間あります?」
「はい」
「閉店したらわたしもすぐに着替えて出るので、どこかでお茶でも飲みませんか?」
「いいですけど。何なら、ご飯も食べますか?」
「いえ。お茶だけで」
 てっとり早く、待ち合わせ場所は和光の前、時間は八時半、と決めた。一時間近く待たせてしまうことを謝ると、亮介は言った。いいですよ。書店にでも行きます。
 そして午後八時半。着いてみると、すでに亮介はいた。ほかにも待ち合わせとおぼしき人がたくさんいる。午後十時ごろまでは、増えては減って、を三十分ごとにくり返すのだ。
『夜、街の隙間』を観た映画館の近くのカフェに入った。狭い階段を上った先。雑居ビルの二階にあるカフェだ。午後十一時までやっていることを知っていたのでそこにした。貢とも何度か行ったことがある。仕事終わりに食事をすませたあとなんかに。
 二人掛けのテーブル席に座り、亮介はカフェラテ、わたしはカプチーノを頼んだ。貢と出くわすことはないとわかっていた。今日は休み。この時間はチームの練習に参加しているはずだ。
 リーグ戦最後の試合に勝ち、カピターレ東京は三位になった。だから、それで終わりではなく、まだ続くことになった。あとで、これまでも何度か見ているクラブのホームページを見てみた。試合のレポートのようなものが載っていた。それによれば、何と、貢が点をとっていた。試合終了五分前に貢がとったその一点で、チームはどうにか勝ったのだ。田口の鬼ヘディングで勝利! と書かれていた。起死回生の一発、だったらしい。
 サッカーのことはよく知らない。でもこれは知ってる。貢は守備の人だ。自分たちのゴールに近い辺り、後ろのほうにいる。そして相手チームの攻撃をはね返す。ボールが高く上がると、相手選手と競うようにジャンプして、ヘディングする。相手のゴールのほうにはそんなに出ていかない。でもチームが負けそうなときは、たまに出ていく。この試合もその感じだったのだろう。そこで出ていき、実際に点をとったのだ。
 すごいな、とは思った。まだ続いちゃうのか、とも思った。点をとった直後の貢の画像も載っていた。鬼、だった。怒っているように見えた。でも次の画像では、もう鬼じゃなかった。チームの人たちに囲まれ、祝福されていた。その次の画像では、グラウンドに倒されていた。貢自身の顔は見えなかったが、ほかの人たちの顔はどれも明るかった。笑っていた。喜んでいた。貢がそうさせたのだ。
 自分が点をとったことを、貢はわたしに言わなかった。言っても喜ばないと思ったのかもしれない。去年までは、貢もわたしに言うことがあった。点をとったよ、と。そして指を額の真ん中に当て、こう続けるのだ。ここで、と。貢の同期の横井春菜からも聞いた。貢は守備の人なのにチームの得点王でもあるのだと。
 春菜は、去年までサッカー部のマネージャーを務めていた。その関係もあって、わたしと貢の披露宴にも呼んだ。三ヵ月前の若松俊平と香苗の披露宴でも顔を合わせた。貢によれば、付き合って長い彼氏がいるらしい。もしその人と結婚するなら、わたしも披露宴に呼ばれるかもしれない。
 カフェラテとカプチーノが届けられる。一口飲む。おいしい。が、銀座なので、少し高い。どちらも千円近い。でも今日は私が払うつもりでいる。亮介に時間をつかわせたから。
「貢のチームのこと、ありがとうございます」と、座ったまま頭を下げる。
「いいですよ、そんな。僕が自分のためにやったことだから」
 まあ、そうなのだろうな、と思う。貢のためではない。わたしのためでもない。やはり亮介自身のためだろう。でもそれが貢のためにもわたしのためにもなることは確かだ。だからこそ、そのことに感謝したうえで、わたしは言う。
「もう会わないようにしましょう」
「はい?」
「わたしたち」
「どうしたんですか? 急に」
「思ったんですよ。やっぱりいいことではないなと。こんなによくしてもらってそんなことを言うのはズルいとわかってはいるんですけど」
「ご主人に何か言われたとか」
「言われてないです。言ったのはわたし。天野さんと映画を観に行ったことを話しました」
「そうですか」
「はい。隠すことでもないので」
 その人、誰? と貢に訊かれた。答えずにいることもできた。でもわたしは答えた。答えてよかったと思っている。
「勝手なことをしちゃったんですね、僕が」
「そうじゃないです。どれもうれしいです。貢のチームのために動いてくれたことも、いい映画を教えてくれたことも。もちろん、ジャケットやパンツを買ってくれたことも」
「話を上に通す前に田口さんに訊けばよかったですね、そうしていいですかって」
「そんなことないです。わたしに許可をとるような話じゃありません。わたしはチームと無関係なので」
「でも僕は、田口さんからその話を聞いたわけだし」
「わたしが勝手に話したんですよ。そこは気にしないでください」
 貢も亮介も、動く前にわたしに言ってくれなかった。貢には怒った。亮介には怒らない。当然だ。貢は夫。亮介はそうじゃない。
「まあ、あれですよ。映画の趣味が合っただけでもうれしいですよ。なんて言ったら、気持ち悪いですか?」
「いえ、そんな」
「正直に言うと、田口さんが結婚してると聞いたとき、あぁ、そうか、とは思いました。ただ、この人ならいいか、とも思っちゃったんですよね。別に変な意味じゃなくて。映画に誘うのはいいんじゃないかなって。チャップリンの話も通じましたし」
 意外にも、田口家でよく流れるいやな空気は流れない。亮介はカフェラテを飲む。カップをソーサーに置く。カツンと音がする。
「草食系だの何だのって、よく言われますよ。あんまり求めてこないんだそうです」
「ちょっとわかるような気は、します」
「しますか」
「はい」
「草食とか肉食とか、何なんでしょうね、その分類。草食動物だって、交尾はしますよ」
 そうですね、とは言わない。三十一歳、既婚。とはいえ、一応、女子。言わない。代わりに言う。
「豚丼もお好きですもんね」
「そうですね」
 こんな場で普通に交尾と言えるところが亮介らしい。一緒に映画を観て、ご飯を食べたのは二度だが、売場ではもう何度も会っている。股下丈まで計っている。亮介らしい、と感じるくらいにはなっている。
「支援をやめてほしいとか、そういうことではないですよね?」
「はい?」
「チームのスポンサーにならないでほしい、と言ってるわけじゃないですよね?」
「あぁ。ちがいます。そんなことを言う権利、わたしにはありませんよ」
「よかったです」と亮介は笑う。「なるなと言われてたら、かなり困ってました。チームを支援しましょうと上に提案して、今度はやっぱりやめましょうと提案する。見事な一人相撲をとるとこでしたよ」
 それにはわたしも笑う。笑って見せる。ちょっと複雑な気分だ。亮介は動いた。貢だって動いた。貢の場合、迷惑な動き方ではあったが、まあ、動いた。わたしだけが、動いてない。
「もう会わない。それはいいです。映画を観に行くのはやめましょう」
「はい」
 映画自体はもっと観たいな、と思う。『豚と恋の村』、『夜、街の隙間』。ウチのイベントスペースで上映会をやりたいくらいだ。そういうの、本当にできないだろうか。設備がないから上映会は無理にしても、例えばミニシアター復興展とか。
「ただ、お店に買物には行ってもいいですか?」
 それにはちょっと驚く。もう来てくれるわけがないと思っていたのだ。行きません、とは言われないまでも、このまま来なくなって終わりだろうと。
「これも変な意味じゃなくて」と亮介は続ける。「ツイードのジャケットもほしいんですよ。買いやすいお店は利用したい。やっぱり、デパートは好きなんですよ。大規模なセレクトショップみたいなもんで、何を置いてるだろうって楽しさがあるから。対応もいいですしね」
「でもわたしは、採寸ミスをしちゃいました」
「ミスは誰でもしますよ。問題はそのあと。田口さんは素早かった。感心しましたよ。まさかその場でメーカーさんに電話をかけてくれるとは思わなかったんで。量販店なら、在庫確認すらしてくれなかったかもしれない。ほかのと交換、もしくは返金、で終わりですよ」
 店によってはそうなるだろう。在庫管理をしてないのではない。しきれない。そこまで手がまわらないのだ。
「といっても、結局は人なんですよね。店員さん個人。田口さんじゃなかったら、あの場で電話はしてくれなかったと思いますよ。あとでご連絡します、になってたんじゃないかな。そこまでしてくれるんなら、行っちゃいますよ、買いに」
 そう言って、亮介は笑う。カフェラテを一口飲み、カップをまたカツンとソーサーに置く。そのカツンが、とてもいい音に聞こえる。
「もちろん、田口さんが相手をしてくれなくてもいいです。わざわざ呼んだりもしませんし」
「いえ、それはもう」とわたしは言う。「いくらでも呼んでください。大喜びで駆けつけますから。社食でお昼を食べてても駆けつけますよ」
「じゃあ、お願いします。うれしいですよ。デキンにならなくてよかった」
 出禁。出入禁止。
 なるわけない。


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ


<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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