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試合が終わり、おれは一人でビールを飲んだ。(『それ自体が奇跡』第18話)

ゲキサカ / 2018年1月6日 20時0分

試合が終わり、おれは一人でビールを飲んだ。(『それ自体が奇跡』第18話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


 上がれない可能性もある。それはわかっていた。上がれなかったところで何が変わるわけでもない。それもわかっていた。実際に上がれなかった。実際に何も変わらない。
 試合終了直後は、さすがに力が抜けた。ピッチに座りこみ、しばらく立てなかった。十一人全員がそうだった。だが新哉が立つのを見て、おれも立った。そして皆を立たせ、相手チームとのあいさつをすませた。二十代半ばとおぼしきキャプテンには、おめでとうを言った。だがその一度だけ。あと十回言う気にはならなかった。一人一人と握手をし、ただ会釈をした。
 試合後のミーティングでは、監督が言った。
「おつかれさん。みんな、よくやってくれた。誰かが勝つときは誰かが負ける。今日はウチが負けた。次勝とう」
 次。来年。あらためて、東京都社会人サッカーリーグ一部の全日程をこなさなければならない。三位に入らなければならない。入れる保証はない。これを何度もくり返すことで、意欲やレベルを低下させてしまうチームもある。
「ただ、今日の試合は今日の試合で、今日のうちに反省しよう。おれは二つポイントがあったと思ってる。一つは、先制したあとの守備。誰がってことじゃない。ベンチのおれも含めて、みんなゆるんだ。よくない意味で、勝てる、と思った。失点にじゃなく、得点に振りまわされた感じだな。もう一つは、追いつかれたあとの守備。結局は守備だ。ディフェンス陣が悪いというんじゃない。全体が下がった。もう点をとられたくない、になった。そう思うのはしかたない。でも思ったうえで前に出ていけるようにならないとな。おれも精神論はきらいだが、じゃあ、技術戦術だけで勝てるかっていうと、そうでもない。みんな、高校大学とやってきたんだ。そんなことはもう、いやというほどわかってるよな。じゃあ、どうするか。チームとして経験を積むしかないんだ。この経験を活かせ、なんてきれいごとも言いたくないが、こうなったからには活かすしかない。それぞれの都合もあるから今すぐ決められることじゃないが、おれは来年もこのメンバーでやりたいと思ってる。東京一部も関東大会も、ウチの力ならぶっちぎりで優勝しなきゃいけないと思ってる」
 そのあとを、スーツ姿の立花さんが引き継いだ。
「今池内が言った以上のことはない。カピターレ東京は来年も東京一部で戦う。いつまでもそこにいるわけにはいかない。上を目指すチームが三年も四年も同じリーグにいていいわけがない。来年は必ず上がる。そのためにも、残れるやつは残ってほしい。以上」
 そしてチームは解散した。とりあえずだが、まさにの解散。残る残らないの話は、後日、立花さんと個別にする。退団する者とはもう顔を合わせない可能性もある。
 シャワーを浴び、マッサージを受けて、試合場をあとにした。試合が終わったのが午後一時で、今が午後三時。場所は神奈川。おれは遠いが、むしろ近い者もいる。いつもの練習や試合と大して変わらない。移動も自費だ。
 駅に向かって歩きながら、おれはまず会社に電話をかけた。出たのは増渕葵だ。試合に負けたことを話し、だから明日の有休はなしにする、と伝えた。
 みつばにはまっすぐ帰るつもりでいた。電車に乗ってから、昼食をとってないことに気づいた。気づいたことで、やっと空腹を覚えた。乗り換えの東京駅でそばでも食べようかと思ったが、いざ着いてみると億劫になり、そのまま下りの快速電車に乗った。そしてみつば駅で降り、改札を出た。
 午後五時。はっきりと空腹を覚えた。みつば南団地の自宅に戻っても、綾はいない。早番だから遅くはならないが、おれの食事の支度はしない。いらないと言っておいたのだ。試合に勝って、皆と祝杯を挙げるつもりでいたから。
 コンビニ弁当を家で食べる気にはならなかった。といって、みつば駅の周辺は住宅地なので、飲食店はあまりない。ファミレスが二軒と居酒屋が二軒あるだけだ。どちらにしようと思い、居酒屋にした。ちょっと高い蜜葉屋ではなく、安いチェーン店のほう。五時だから、もうやっているはずだ。
 というわけで、その店に入った。まさに開店直後。おれが最初の客になった。一人客のためのカウンター席もいくつかあるが、さすがにその時刻、店員はおれを二人掛けのテーブル席に案内してくれた。
 居酒屋なので飲みものを頼まないわけにもいかず、ビールを頼んだ。枝豆と焼鳥も頼む。春菜と飲んだときと同じだと気づき、苦笑した。ビールはすぐに届けられた。向かいは空席。それでもおれは一人、微かにジョッキを掲げ、乾杯した。何に? シーズンの終了に。大きなケガもなく、どうにかシーズンを終えたことに。
 ビールを飲む。ゴクゴク飲む。ジョッキの半分を飲んでしまう。それも、春菜と飲んだときと同じだ。空腹だったためか、アルコールが体の隅々まで行き渡る感じがした。ふうっと息を吐く。それでは足りず、もう一度吐く。二度めは長く、ふうぅっと。
 明日は会社に行く。神奈川の試合場には行かない。行われるのは決勝のみ。三位決定戦は行われないのだ。それでいい。わざわざ出かけていって、そんな試合をやる意味がない。関東二部昇格を逃した者たち同士が大会での三位を争うことに意味があるとはとても思えない。
 最後の試合が終わった。このあとも体は少し動かすだろうが、もう年内に試合はない。よくやったな、と思い、よくやったのか? と思う。皆とおつかれを言い合い、別れて一人になってからは、さすがにポヤ~ンとした。そのポヤ~ンは、今なお続いている。こうして居酒屋のテーブル席に落ちつき、ビールを体に流しこんでみて、わかった。ごまかそうとしてきたが、無理だ。
 ものすごく、悔しかった。頭を、そして胸をかきむしりたくなるくらい、悔しかった。ビールを飲んだことで、まさにストッパーが外れた。抑えていたものが一気に出た。予想を超えてすさまじく悔しいことに、おれ自身が驚いた。高三の県大会、その準決勝で負けたときも悔しかった。あのときとはまたちがう種類の悔しさがあった。
 本気だが無報酬のサッカー。ある程度のレベルは求められるが対価は支払われないサッカー。だからこそ、やらされていたのでなく、望んでやっていたことに、あらためて気づいた。おれはこの歳になって初めて、本気でサッカーを求めたのだ。本気で求めたからこそ、負けがこんなにも悔しい。
 ビールをさらにゴクゴク飲む。枝豆を持ってきた店員に、二杯めを注文する。すぐに届けられたそれも、ゴクゴク飲む。
 一つ一つのプレーが、まぶたの裏に映像としてよみがえる。相手フォワードとヘディングで競り合った場面。カウンターのカウンターを食い、失点した場面。コーナーキックからのヘディングシュートをゴールの枠に収められなかった場面。相手の10番と一対一になった場面。
 空中での競り合いでは負けなかった。脅威を感じる相手もいなかった。とられた一点めは、もう少し注意が必要だった。してはいたつもりだが、自分たちがカウンターに出たことで、その注意が薄れた。センターバックのクリアボールは、たまたまいいパスになっただけ。だがああいうこともある。想定はしておくべきだった。
 おれ自身のヘディングシュートは、枠に収めなければいけなかった。もう少しふくらんでからなかに切れこんでいれば、ゴールに向かう角度でヒットできた。あれが決まっていたら、流れはちがっていた。今ごろおれはこんなところで中生を飲んではいないはずだ。中生は中生かもしれないが、皆と笑顔で飲んでいただろう。
 そして10番との一対一。そこは負けなかった。五月の試合で相手フォワードにやられたときのようなヘマはしなかった。きちんと修正し、対応した。そう。まだ対応できた。三十一歳の今でも。それは誇っていい。
 ゴクゴクではなく、ビールをガブガブ飲む。焼鳥を持ってきた店員に、三杯めを注文する。すぐに届けられたそれも、ガブガブ飲む。
 負けは負け。受け入れなければならない。おれは立花さんや監督の期待を裏切った。途中からはキャプテンにまでしてくれたのに、裏切った。ここ三年続けて上のリーグに昇格してきたチームを初めて足踏みさせた。手が届くところまでは行ったが、あと一つ足りなかった。職場ではされていない期待。その期待に応えられなかったことが、本当に悔しい。
 その後も、おれはビールを飲みつづけた。一人、飲んで、飲んで、飲んだ。食事をしようと店に入ったはずなのに、枝豆と焼鳥のほかは頼まない。ビールだけをひたすら体に流しこんだ。
 店を出たのは、午後八時。スマホで時間を見て、驚いた。三時間も居酒屋にいたのだ。一人で。
 十一月の夜。外はもう寒い。吐く息が微かに白い。だが心地いい。体のなかは熱く、表面は冷たい。みつば南団地に向かった。が、左に曲がるべきところで曲がらなかった。ここから先にはもうないな、と気づき、コンビニで缶ビールを買った。五百ミリリットル缶だ。スポーツバッグには入れず、それを手に持ったまま、海まで歩いた。
 人工海浜。砂浜。そのかなり手前、コンクリートの堤防に腰掛ける。
 土曜だからか、そんな時刻でも人がいる。高校生らしきグループ。男女のカップル。飼主と犬。ところどころに街灯があるので、暗くはない。砂浜の先に海が見える。何のことはない。東京湾だ。波の音が聞こえる。うるさくはない。都市部ですもの、うるさくはできませんよ、と控えめに打ち寄せる感じだ。波しぶきだけが白い。海全体は黒い。
 いつも、この堤防のすぐ後ろの道を走る。アスファルトの道路だ。直線で信号がないから走りやすい。そして大きくまわり、内陸側、陸橋を渡った高台の四葉まで行く。それがおれのランニングコースだ。十キロ近くになる。アップダウンがあるから、いいトレーニングになる。足腰を鍛えるため、時には砂浜を走りもする。短い距離のダッシュ。それを何本もやる。時間帯によっては、子どもを連れた若い母親に、何なの、この人、という目で見られる。ママあの人何してんの? という子どもの声が実際に聞こえてくることもある。
 缶のタブをクシッと開け、ビールを飲む。うまいな、という思いと、もうそんなにうまくないな、という思いが同時に湧く。酔っている。このビールを飲み終えたら、砂浜でダッシュをやりだすかもしれない。十本も二十本もやり、最後にはぶっ倒れるかもしれない。まあ、それもいい。
 スマホの着信音が鳴る。電話だ。パンツの前ポケットから取りだして、画面を見る。
〈綾〉
 出る。
「もしもし」
「わたし」
「ああ」
 しばしの間のあと、綾は言う。
「どうした?」
 何が? と言いそうになって、試合の結果を訊かれたのだと気づく。
「負けたよ」
「そう」
「シーズンは終了」
「うん」
 やはりしばしの間のあと、綾が尋ねる。
「今どこ?」
「外」と答える。「海」
「海? どこの?」
「みつば」
「何、もう帰ってきてるの?」
「うん」
「何してるの?」
「飲んでる」
「チームの人たちと、ではないよね?」
「ではない。一人」
「一人で飲んでるの? 海で」
「そう」
 そこでも間ができる。何を言えばいいかわからない。通話をどうやって終わらせればいいかもわからない。わからないまま、間は長くなる。通話中の間としては、相当長い。夫婦の間としても、相当長い。目を閉じる。何かがグルグルと渦を巻く。開いた口から言葉が出る。
「おれ、何か、キツいわ」
 自分でも意味がよくわからない。綾はもっとわからないだろう。
「ねぇ、だいじょうぶ?」
 だいじょうぶかどうかもわからない。だいじょうぶと伝えるつもりで、言う。
「もうちょっとしたら帰るよ」
 そして電話を切る。いい感じに切れた、と思う。綾も、そういやな気分にはならないだろう。
 スマホをパンツの前ポケットに戻す。スポーツバッグを枕代わりに、堤防の上で横になる。人一人がちょうど横になれる幅があるのだ。ただし、寝返りを打ったら、およそ一メートル下に転落する。右に打ったらアスファルト、左に打ったらコンクリート。
 仰向けになり、夜空の星を見る。それを愛でる感性は、残念ながら、ない。おれがわざわざ夜空を見るのは、夜の試合のときぐらいだ。蹴り上げられたボールを見る。その背景が夜空。そんな具合。
 横たわるとグルグルが増すことがわかったので、起き上がる。体は疲れているから寝そべりたいが、そのグルグル感もツラい。明らかに飲みすぎだ。
 それでも、ビールを飲む。考える。
 負けた。と、またそこへ戻る。やれる手応えはつかんだが、負けた。次やれば勝てるかもしれない。が、負けるかもしれない。何度やっても負けるかもしれない。上がるどころか、下がるかもしれない。去年いたリーグ三部に落ちることはないだろうが、二部には落ちるかもしれない。やるなら、それを知ったうえでやらなければならない。おれにやれるのか。
 ふうぅぅぅぅぅっと息を吐く。吐けるだけ吐く。今度は綾のことを考える。
 プロジェクトに応募していたと、販促の落合さんから聞いた。そのとき、落合さんは言った。ここだけの話ね、奥さんのこともほしかったんだ。事実、もう一人とれないかと上に打診もした。でもやっぱり無理でね。残念だよ。上司の柴山さんからもできる人だと聞いてたし、面接で実際に話をしてみて、そうだろうと僕自身も思った。せっかく手を挙げてくれたのに、ほんと、申し訳ない。
 できる人。前に中尾さんも綾のことをそう言った。あのときは、できる奥さん、だったが。
 ダンナのおれにだから言うのだろうと思っていた。たぶん、ちがう。綾は、本当にできるのだ。売場で見かけたときの感じでもわかる。いや、もっと身近なところで、家事のこなしぶりを見ればわかる。中尾さんはともかく、落合さんの言葉がうそだとは思えない。
 もう一度、ふうぅぅぅぅぅっと息を吐く。吐けるだけ吐き、ゆっくりと吸う。
 何だろう。時間の感覚が薄れた。ここに来ていったい何分経ったのか。ずっと見ていたはずなのに、気がつくと、微妙に風景が変わっている。飼主と犬がいないのはいいとして。いつの間にか高校生らしきグループもいなくなっている。男女のカップルはいるが、さっきいた二人とはまた別の二人っぽい。
 そもそも、ここは本当にみつばの海なのか。綾にはそう言ってしまったが、神奈川のどこかの海だったりするんじゃないのか?
 笑う。完全に酔っている。その証拠に、綾が見える。右方からこちらに歩いてくる綾の姿が見える。酔って記憶をなくすならともかく。幻覚はマズい。その幻覚は、しゃべる。
「何してるのよ」
 幻聴?
「ほんとに飲んでるの?」
「あぁ」
「夜の海で一人で缶ビールって、何よ。おじさんみたい」
 何を言おうか迷い、こんなことを言ってしまう。
「ホームレスの?」
「そうは言ってない」と言って、綾がおれの隣に座る。スポーツバッグを挟んだ、右隣だ。
 綾。実物。パーカーにジョガーパンツ。駅前の大型スーパーに買物に行くときのような服装の、綾。いきなりの出現にとまどう。先の電話同様、間ができてしまう。
「どうして?」とアバウトに尋ねる。
「何かおかしかったから」とそこはすぐに答がくる。
「おれ、おかしかった?」
「おかしいでしょ。電話であんなこと言うんだから」
 あんなこと。おれ、何か、キツいわ。
「心配になるよ。もう寒いし」
「そんなに寒くはないよ。飲んでるから」
「だから心配なの。飲んで寝ちゃったりしたら、カゼじゃすまないかも」
「死にはしないよ」
「でも肺炎とかにはなる。肺炎は、死ぬよ」
「よくわかったね、ここが」
「海だって言うから。いつも走ってる辺りだろうなと思った。ほんとにいた」
「女一人じゃあぶないよ」
「だったら、来させないでよ」
 ともに前方、黒に白が交ざる海を見ながら、そんな話をする。来させたつもりはない。来るなんて、思いもしなかった。思ったとしても、まさかな、とすぐに打ち消しただろう。
「この時間でも人はいるんだね」と綾が言い、
「うん」とおれが言う。
「まあ、夜の海を見たがるカップルは、いるか」
「土曜だし」
「平日でも、いるでしょ。次の日が仕事だとしても、カップルはがんばるよ」
「かもな」
 おれと綾。二人で夜の海を見たことはあるだろうか。夜空の星を愛でる感性のないおれと、サプライズを好まない綾。たぶん、ない。
「いつも思うんだけど。試合に負けるのって、そんなに悔しいの?」
「悔しいな。何でこんなに悔しいんだよってくらい、悔しい。勝ったらいくらかもらえてたってわけじゃなくても」
「負けたらいくらか払わなきゃいけない。それで負けたほうが悔しいんじゃない?」
「どうだろう」
 そうかもしれない。負けて払う場合のほうが、意欲は高まるだろう。人間誰しも、得をしたいという気持ちよりは損をしたくないという気持ちのほうが強いから。
「そんなに悔しいのに、また試合をやるんだ?」
「やるね」
「負けるとわかってても、やる?」
「負けるとわかってる試合なんてないよ」
「あるでしょ」
「例えばプロチームと試合をやるとする。力の差はある。でも試合前に食べたしめサバに相手の全員があたって、運動量が落ちるかもしれない。ロクに走れなくなるかもしれない」
「何よ、それ」と綾が笑う。
 そちらを見てはいないが、笑ったことが声でわかる。久しぶりに、綾のそんな声を聞く。
「試合前に、サッカーチームがしめサバを食べるの?」
「食べない。試合では、予想もしなかった何かが起こるってこと」
 ビールを飲む。もう冷たくはないが、生ぬるくて飲めない、というほどでもない。綾がおれを見る。飲む? と尋ねる。声でではなく、缶を差しだす仕種で。
「いい」と綾は声で言う。そしてこう続ける。「でもやっぱりもらう」
 缶を渡す。綾が一口飲む。
「ぬるい」
 それが一口めなら、そうだろう。浴びるほど飲んだおれの感覚が鈍くなっただけだ。ぬるいとは言いつつ、綾は缶を返さない。もうおれに飲ませないようにする気かもしれない。
「明日は出るから」と自ら言う。
「ん?」
「仕事」
「あぁ。そうなの?」
「うん。負けたから。休む理由がない」
 綾は意外なことを言う。
「一日ぐらい休めば」
「いや。もう会社に言っちゃったし」
「電話したの?」
「そう。有休を取り消してもらわなきゃいけないから」
「明日は仕事なのに、そんなに飲んだんだ?」
「そんなに?」
「これが最初の一本てことはないでしょ? 電話の声も、相当きてたし」
「きてた?」
「きてたよ。おかしなことをしでかすんじゃないかと思った」
「おかしなことって?」
「わかんないけど」
 この一年だけにしてね、と前に綾は言った。その一年が終わった。気持ちは変わっていないだろう。変わる理由がない。おれ自身、それについて、今は何も言いたくない。酔ったこの状態では言いたくない。酔ってるから言ったのだと思われたくない。
 俊平の披露宴で自分が言ったことを、ふと思いだす。
 結婚は、それ自体が奇跡。
 そう。たかが紙切れ一枚。おれはその紙切れ一枚で、綾のことがほかの誰よりも好きだと公的に表明したのだ。と同時に、綾にも表明してもらったのだ。確かに、人としての自信になった。うれしかった。そのうれしさまでも思いだす。思いだすということは、忘れてたのかよ、と苦笑する。
「何?」と言われ、
「いや」と返す。
 サッカーとは別のところで、自信が少しだけ戻った。あらためて気づく。今一番ここにいてほしかった人が、今ここにいる。これも奇跡だと思う。夜空の星が、少しはきれいに見える。
「一つお願いがある」とおれは言う。
「何?」とやや不安げに綾が言う。
 これは聞き入れてもらえる自信がある。
「明日の朝、起こしてよ」


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ


<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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