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妻に訪れた名古屋転勤のオファー…(『それ自体が奇跡』第19話)

ゲキサカ / 2018年1月7日 20時0分

妻に訪れた名古屋転勤のオファー…(『それ自体が奇跡』第19話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


交感の十二月

「もちろん、強制じゃないわよ」と柴山マネージャーが言う。「こんな話もあるからお知らせしておきますっていうだけ」
 今回は二人きりではない。事務所ですらない。レジ付近での立ち話。雑談レベルだ。
 名古屋店の新館リニューアル。メンズ館として、来年四月に再オープンの予定。これまでより規模が大きくなるので、その再オープンに携わる社員を各店から数名募集するのだという。期間は二年限定。ただ、相談には応じてくれるらしい。そこが気に入れば、残れる可能性もあるということだ。
「名古屋店は、紳士が弱かったのよね。だから思いきって勝負に出たわけ。今さらメンズ館て、かなりの大勝負よ」
「各店から募集っていうのはすごいですね。引っ越さなきゃいけないのに、手を挙げる人、います?」
「意外といるんじゃない? 新しいお店はやっぱり魅力でしょ。何といっても、自分たちでつくり上げていく楽しさがある。だからね、そのことを聞いて、綾さんに話してみようと思ったの。紳士だったらバッチリじゃない。経験もあるわけだし」
「でも。名古屋ですよね」
「問題はそこよね」
「異動は、四月一日付けなんですか?」
「いや、もう少し早くなるんじゃないかな。四月オープンで四月一日の異動じゃ遅いでしょ」
「あぁ。そうですよね」
「だから、一ヵ月前とか。もしかしたら、二月十五日とか」
「おもしろそうではありますけどね」
「頭の隅には入れておいて。応募の締切は年明けの六日だから、考える時間はあるし」
「はい。気をつかっていただいて、ありがとうございます」
「いえいえ。ほんとに、応募しなさいってことでも何でもないからね。そこは勘ちがいしないでね。常識的に考えて、綾さんが行けるわけないんだから。あくまでも、そんなお話がありますっていうこと。田口くんに、柴山さんにすすめられた、なんて言わないでね。すすめてはいないから」
「わかりました」
「じゃ、ちょっと行ってくるわね」と言い、柴山さんはふざけて顔をしかめる。「マネージャー会議。目標未達がどうのとつつかれる。いやんなっちゃう」
「いってらっしゃい」
 柴山さんが去ったあとも、わたしは一人でレジ番をする。名古屋は遠いよなぁ、と思う。豊橋には一度行ったことがあるが、名古屋はない。新幹線で通ったことがあるだけだ。きしめんと味噌煮込みうどんと味噌カツのイメージしかない。あとは、結婚式が大変、とか。
 名古屋を通ったそのときは、鳥取に行った。結婚する前に、貢と。二人で夏季休暇を同時期にとって。京都は名所が多すぎて疲れてしまいそうだったので、なら鳥取に、となった。砂丘に行くことにしたのだ。
 砂丘はこぢんまりしててよさそうだな、と思ったら、本当にこぢんまりしていた。予想よりずっと狭かった。地平線まで見渡す限り砂丘! なんてことはなかった。あっけなく見渡せてしまった。登山者気分でそうした人がいたらしく、高くもない丘の頂に竹の棒が突き立てられていた。近くにいた大学生らしきグループの一人が、こうしてくれるわ、とその棒を引っこ抜いた。その言葉がおかしくて、貢と二人で笑ったのを覚えている。
 フロアの通路を、一人の男性が歩いてくるのが見えた。四十代前半ぐらい。スーツ姿。がっしりした体つき。男性は角を右に曲がらず、奥まったこちらへとやってきた。
 応対すべく、わたしもレジカウンターへと進み出た。まずは会釈をする。
「田口綾さんですか?」といきなり言われる。
「はい」と応える。
 カウンターを挟んで向かい合う。男性は背が高い。貢と同じぐらいか。
「突然すみません。向こうの売場で、田口さんはこちらにいらっしゃると聞いたので」
「そうですか」
「初めまして。ごあいさつが遅れて申し訳ありません。タチバナといいます」
「どうも」
 どこのメーカーさんだろう、と思った。初めましてだから、わたしが忘れたわけではない。差しだされた名刺を受けとって、見る。
 カピターレ東京 代表理事 立花立
 そう書かれていた。たちばなたつる、と読みがなもふられていた。
「あぁ」とつい声を洩らしてしまい、あわてて続ける。「貢がお世話になっております」
「いえ。お世話になってるのはこっちです。田口くんにはお世話になりっぱなしです。で、ついには奥さんにまで」
「はい?」
「クラブのスポンサーの件で」
 立花立さんは、天野亮介の会社の名前を挙げた。
「あぁ。はい」
「そちらにはいろいろと支援していただけることになりまして」
「そう、みたいですね」
「来年からはユニフォームの胸にロゴマークが入ります」
「文具会社さんのロゴ、ですか」
「ええ。スポーツ関係の会社さんだけがスポンサーになってくれるわけではないので。おもしろいですよ、文具会社さんというのは。すごくありがたい。スポーツと文化の垣根をなくしたいというウチのクラブの理念とも合います。で、奥さんもこちらにお勤めだと聞きまして、お礼に伺いました。ご自宅にというわけにはいきませんが、こちらならいいかと」
「わたしは何もしてませんけど」
「いえいえ。ウチのクラブを紹介していただきました」
「それは、あの、たまたま貢の話をしただけで」
「でもそこから始まった話です。充分、お礼に値しますよ。ということで、つまらないものですが、これを」
 洋菓子の詰め合わせだった。紙袋だけでわかる。わたしが好きなお店のものだ。TYマーク。鶴巻洋菓子店。
「本当はこんなものでごまかしちゃいけないんですが」
「いえ、そんな。でも、頂けませんよ」
「そうおっしゃらずに。あくまでも気持ちですから。甘いもの、おきらいではないですよね?」
「きらいでは、ないです」
「ここまで来てから、あっと思ったんですよ。どうせなら地下のお菓子屋さんで買うべきだったなと。そうすれば売上に貢献できますからね。気がまわりませんでした。失礼しました」
「いえ。わたしもこんなこと言っちゃいけませんけど。そのお店のものは、とても好きなので」
「よかった。ではぜひ」
「すみません。じゃあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
 その品を、ありがたく頂戴する。そしてふと思いついたことを口にする。
「そういえば、今日、貢は休みですけど」
「いいですいいです。今日は奥さんにお礼を言いに来ただけなので」
「たぶん、今ごろは走ってますよ。砂浜とか、高台とかを」
「そうですか。さすがキャプテン。頼もしい」
 貢がキャプテンになったことは知っている。チームのホームページにそう書かれていたから。試合の画像でも、確かにあれを巻いていた。ガムテープならぬ、キャプテンマークを。
「あの、素人考えなんですけど」
「はい」
「入ったばかりの選手をいきなりキャプテンにしちゃって、だいじょうぶなんですか?」
「だいじょうぶですよ。チームに長くいるかは、あまり重要じゃないんです。プレーでもそれ以外の部分でも信頼できる人間であることが何よりも大事です。三ヵ月もチームにいれば、そのあたりのことはわかります。信頼できない人間にキャプテンをまかせたりはしませんよ」
 お世辞ではないように聞こえた。少しも混ざってないはずはないが、混ざっていても少しだろう、と思えた。
「わたし、サッカーのことを何も知らないんですよ。土日はあまり休めないので、試合を観に行ったこともないです。貢も、観に来いとは言いません」
「言いませんか」と立花さんが笑う。
「はい。むしろそういうのはいやなんだと思います。集中できなくなるのかも。わたしなら、たぶん、そうですし」
「どちらのタイプもいますからね。観に来てくれたほうが力を出せるタイプと、そうでないタイプと」
「わたしがこんなことをお訊きするのも何ですけど、貢は、いい選手なんですか?」
「いい選手ですよ。今年は最後の最後で負けてしまいましたが、田口くんがいなかったらその最後の舞台にも立てなかったんじゃないかとわたしは思ってます。これはわたしだけじゃない。監督もほかの選手たちもそう思ってるはずですよ。開幕早々、チームの主力が一人、転勤で抜けちゃいましてね。そのあとさらにキャプテンも抜けて。田口くんがいなかったら、本当にあぶなかったです。チームがまとまることも、なかったかもしれない。これは奥さんにだから言えることですけどね。今シーズンわたしがしたなかで一番いい仕事は、田口くんを引っぱってきたことですよ。そのうえ、奥さんはスポンサーまで見つけてくれた。田口夫妻には、感謝しかないです」
 何とも言えなかった。わたしが謙遜するのも変だし、しないのも変だ。結果、黙ってしまう。
「で、そう。感謝ついでに、これもついさっき思ったんですが。ズボンを買いたいんですよ。いや、ズボンはおっさんか。えーと、スラックス、でもなくて、パンツ、ですか」
「あぁ。はい」
「わたしは今四十三なんですけどね、スラックスはともかく、パンツはどうも言いづらいんですよ。パンツはやっぱり下着だろ、と思っちゃって」
「ズボンはちょっとあれですけど、スラックスならだいじょうぶですよ」
「そうですか。じゃあ、そのスラックスを一本買いたいので、何か適当に見立ててもらえますか?」
「はい」
 そこへちょうど麻衣子さんがやってきた。午後五時。交替の時間だ。
「いらっしゃいませ」と麻衣子さんが声をかける。
 立花さんが会釈を返す。わたしは麻衣子さんに言う。
「パンツのコーナーにご案内してきますね」
 頂いた洋菓子の詰め合わせをカウンター内の棚に置き、外に出る。ではこちらへと、立花さんを導く。
「いやぁ、正直、デパートで自分の服を買うのは久しぶりですよ」と背後から言われる。
 立花さん、もしかして映画が好きだったりしないですよね? と訊いてみたくなる。訊かないけど。


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ


<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
■kindle版の購入はこちら

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