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「10番の血を引く絶滅危惧種」「ルマンの太陽」...移籍先フランスで日本人選手を見る目を大きく変えた【松井大輔が激白】#8

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年6月22日 11時0分

「10番の血を引く絶滅危惧種」「ルマンの太陽」...移籍先フランスで日本人選手を見る目を大きく変えた【松井大輔が激白】#8

仏1年目でルマンの1部昇格の原動力となった(C)Norio ROKUKAWA / Office La Strada

【流浪のファンタジスタ 松井大輔が激白】#8

 2000年に京都サンガでプロとなり、4年後にはフランス2部のルマンに移籍。「当時の京都はJ2でした。同じ2部ならフランスの方がいいに決まっている」と迷うことなく渡仏を決断。瞬く間に「ルマンの太陽」と評されるようになった。 (取材・構成=元川悦子)

  ◇  ◇  ◇

 最初のクラブとなった京都は、FWカズ(三浦知良=JFL鈴鹿)やMF遠藤保仁(G大阪コーチ)、MF朴智星らそうそうたるタレントを擁しており、特にカズからはプロとしてのイロハをしっかりと学んだ。

「カズさんには、自分から『飯、連れてってくださいよ』と懐いていきました。今の若手は自分から先輩に寄っていくのを躊躇する傾向がありますけど、僕はそれじゃダメだと思う。新人時代の経験がその後、欧州で生き抜く糧になりましたね」としみじみ振り返る。

 京都時代には02年度の天皇杯を制覇。U21日本代表として参加した同年のトゥーロン国際でベストエレガント賞受賞、03年には日本代表入りするなどインパクトを残し、04年のアテネ五輪直後にルマンへ移籍した。

「実は、もうひとつのクラブからもオファーがあったのですが、ルマンはパリにTGVで1時間で移動できる。大都市に近い方が何かと安心できると思いました。最初は言葉を話せないので通訳してくれる人にも来てもらわないといけないし、食事や食材入手の面も便利でしたね。当時のルマンは1部から降格したばかり。1年での1部復帰を目指していた。それも士気を高める材料になりました。半年レンタルで買い取りオプション付きの契約だったんで、結果を出すことだけに集中できた。それも大きかった」

 最初の指揮官・ジャンデュピュー監督は「10番の血を引く絶滅危惧種」という独特な言い回しで松井を高く評価した。

「4(DF)-4(MF)-2(FW)の左サイドアタッカーで自由にやらせてくれ、最初から試合に出してもらえた。入りとしては幸運でした。ところが、3カ月後にジャンデュピューがGMになってアンツが監督になった。僕自身は戦々恐々としましたが、『好きにやってくれ』と言われて心から安堵しましたね。『ダイはフィジカルの課題を頭でカバーできる選手。今は好不調の波があるが、好調時は想像を絶するほどのハイレベルのプレーを見せてくれる』と褒めてくれたのもメディアを通して知った。僕にとっては本当にありがたい環境でした」

 瞬く間にチームの主軸となり、1年での1部復帰の原動力となった。

 05~06年シーズンから3年間、欧州5大リーグで活躍。20年前、フランスでプレーしていた線の細い日本人がここまで異彩を放つとは一体、誰が想像しただろう。

 松井は異国の人々の見る目をガラリと変えたのである。(つづく)

▽松井大輔(まつい・だいすけ) 1981年5月11日、京都府生まれ。43歳。2000年に鹿児島実業高からJ京都入り。フランスのルマンを皮切りに6カ国.13クラブを渡り歩いた。YSCC横浜ではフットサルチームにも所属してFリーグに出場。「二刀流」をこなした。04年アテネ五輪出場。10年南アフリカW杯ベスト16。24年4月から横浜FC、浦和の育成部門でコーチを務める。

(取材・構成=元川悦子/サッカージャーナリスト)

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