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4代目山口組組長襲撃犯が逮捕…一和会会長に「見捨てられた」若頭が残した手紙

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年9月5日 9時26分

4代目山口組組長襲撃犯が逮捕…一和会会長に「見捨てられた」若頭が残した手紙

竹中正久組長(右)と中山勝正若頭(左)、南力若中(中)=1985年、山口組初詣/(提供写真)

 よくもこれだけ長い間、敵や警察に見つからなかったものだ。

 長崎県警は2日、諫早市の無職、後藤こと宮本栄治容疑者(75)を名誉毀損の疑いで逮捕した。

 1985年1月、山口組の竹中正久4代目組長ら幹部3人が大阪府吹田市のマンションで、対立で分裂した一和会のヒットマンによって殺害された。後藤容疑者は当時、一和会「2代目山広組」の若頭で、竹中組長の殺害を指示したとして指名手配されていた。事件はすでに時効が成立している。

 今回の逮捕容疑は今年2月、長崎県松浦市の飲食店で、当時30代だった松浦市議を「正月明けから連日連夜はしゃいでいる」と中傷する文書を店を通じて複数枚、客に配布したというもの。市議は事件後に死亡し、関係者が告訴していた。

「中傷文書は本人が作ったのか、共犯者がいるのか、市議は変死なのか。死因については発表していない」(捜査関係者)

 今からちょうど40年前、山口組の分裂は大きな社会事件だった。4代目竹中組長が殺害される1年前の84年6月、跡目争いに敗れた山広組の山本広組長は竹中組長の襲名に猛反発。組を割り、一和会を結成した。

 当時36歳の若さで「2代目山広組」のナンバー2であり、傘下の後藤組組長だった後藤容疑者は襲撃部隊を結成し、実行役4人を選定した。指示を受けたヒットマンは竹中組長の愛人が住むマンションの1階エレベーター付近で竹中組長、中山勝正若頭、南力若中に次々発砲し、3人全員を射殺した。

 事件後、後藤組の若頭が4代目山口組に拉致監禁され、組の解散を迫られると、後藤容疑者は子分を助けるため、山口組に詫び状を送付し、警察に解散届を提出。子分の解放と引き換えに自首する約束をしていたが、そのまま行方をくらましていた。

 一和会は一時、山口組を約1000人上回る6000人の勢力を誇っていたが、組長が次々引退に追い込まれ、組員数は激減。89年3月、山本広会長が自らの引退と同会の解散を届け出、山口組本部を訪れて謝罪。「山一抗争」は終結した。

 暴力団に詳しいノンフィクション作家の溝口敦氏が事件を振り返る。

■39年間に及んだ「逃亡生活」

「事件後、プッツリと後藤の行方が途絶え、山一抗争が進む中、存在自体が忘れられていった。噂話も聞きませんでした。後藤は<山広に見捨てられた><いくら連絡を取ろうとしても取れない。自分は絶望した>という手紙を残していなくなった。誹謗中傷するほど余裕があったということは、心の中ではカタがついていたのかもしれない。恐らく逃走資金はもらっていません。ツテなどを頼り、生活費を得ていたのでしょう」

 自分を見捨てた親分が敵に頭を下げ、一和会は全面敗北。39年間、どんな思いを抱き、「逃亡生活」を送っていたのか。

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