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1981年は「音楽家・沢田研二」として創作の質を深めていった1年でもある【1981年の沢田研二②】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年11月16日 9時26分

1981年は「音楽家・沢田研二」として創作の質を深めていった1年でもある【1981年の沢田研二②】

実は年季の入った作曲活動(提供写真)

【沢田研二の音楽1980-1985】#28

 1981年の沢田研二②

  ◇  ◇  ◇

 この年のシングルは、5月の「渚のラブレター」と9月の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」の2枚。オリジナルアルバムは6月の「S/T/R/I/P/P/E/R」の1枚だけとなる。

 シングル4枚、アルバム3枚をリリースした前年に比べてペースダウン。額面上は少々地味な印象を受ける。

 1981年について特筆すべきは、まずシングル2枚とも沢田研二自身の作曲ということだ。

 作曲活動はこのとき突然始まったものではない。72年の段階で全曲の作曲、さらには作詞まで担当した「JULIE Ⅳ 今僕は倖せです」というアルバムをリリースしているぐらいだから、実は年季が入っていた。

 シングル2曲の編曲は伊藤銀次であり、アルバム「G.S.I LOVE YOU」の成功の流れをくんだものとなっている。

 この年に関して、もうひとつ、さらに特筆すべき出来事がある。それは新バックバンド「エキゾティクス」の結成だ。

 メンバーは、前のバックバンド=オールウェイズのメンバーである吉田建(ベース)、柴山和彦(ギター)、西平彰(キーボード)に加えて、新しく加入した上原裕(ドラムス=名前は当時「豊」と表記)、安田尚哉(ギター)という5人組。

「上原裕」という名前には、見覚えのある音楽ファンも多いだろう。山下達郎がリードボーカルのバンド「シュガー・ベイブ」にもいた人で、さらにその前は、伊藤銀次と一緒に「ごまのはえ」というバンドのメンバーだった。

 ちなみに、山下達郎の有名曲「BOMBER」(78年)における圧倒的なドラムスは上原裕によるものだ。そんな彼のタイトなドラムスが、80年代前半の沢田研二の音楽活動に躍動感を与えていくこととなる。

 なお、シングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」のジャケットは、上に大きく「JULIE&EXOTICS」と書かれており、いわゆる「バックバンド」というより、沢田研二も含めた一体型で運営していこうという意思が確認できる。

 そしてこの年の11月には、ザ・タイガースの再結成プロジェクトが始動(先立って1月に開催された「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル」にザ・タイガースとして参加)。シングル「十年ロマンス」をリリース。こちらの作曲も沢田研二--と、一見、前年よりも地味ながら、1人の音楽家として、創作の質を深めていった1年だといえるだろう。

▽スージー鈴木(音楽評論家) 1966年、大阪府東大阪市生まれ。早大政治経済学部卒業後、博報堂に入社。在職中から音楽評論家として活動し、10冊超の著作を発表。2021年、55歳になったのを機に同社を早期退職。主な著書に「中森明菜の音楽1982-1991」「〈きゅんメロ〉の法則」「サブカルサラリーマンになろう」など。半自伝的小説「弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる」も話題に。ラジオDJとしても活躍中。

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