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詩人・歌手・俳優の三上寛さん「故郷の津軽に現代詩を専門に教える大学をつくりたいなぁ」【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年11月18日 9時26分

 秋に智子さんからハガキが届いた。寺山修司が「この子は詩人だね」と言っていた。そう書いてあった。「よし! オレは東京でプロの詩人になるんだ!」。振り返ると思い込みもはなはだしいが、オレの人生は決まったと信じた。もう怖いモンなんてなかったね。

 でも、オヤジが高校1年の12月に死んで「東京に行って詩人になる」なんてオフクロには言えなかった。就職先を探すことになって警察官をやっている親戚に言われ、青森県の警察学校に入るわけですよ。「水が合わない」と思って4カ月で辞めて実家に戻っても肩身が狭くて居心地が悪い。

 そこでオフクロをだますことにした。

「神奈川・藤沢で板前修業。10年経ったら津軽に店を構える。仕送りもする。心配しないでくれ」

 受け入れ先の割烹店は4カ月で辞めた。寮に戻らず、タクシーの運転手さんに「東京方面に1000円で行けるところまで」。降り立ったところは、鶴見の智子さんの住んでいるそばだった。

 後に衆議院議員や宝塚市長を務める智子さんとの出会いが、ここでもオレの人生の分岐点に大きく関わったわけだな。

モヒカン刈りの新聞配達人

 スポーツ新聞の求人欄で見つけた東京・沼袋の東京新聞の販売店で働くことになった。仕事に慣れるとヘアスタイルをモヒカン刈りにした。東京でも目立っていたねぇ。

 東京新聞400部とは別に夕刊の即売紙・東京スポーツを10部配っていた。東スポ購読者のひとり、沼袋でスナックを経営していた原田さんに言われた。「おもしれぇ~頭してんな。なんかやってんのか?」「歌をやってます」「今晩ウチでやってくれ」。生まれて初めてのライブ演奏。オリジナル曲「なぜ」を歌い終わると原田さん、奥さんのママさん、お客さんも全員が泣いていた。

 不動産業も営んでいた原田さんのところに、寺山修司が作詞した「時には母のない子のように」を歌ってブレークしていたカルメン・マキが部屋を探しにやってきた。

「新たに劇団を立ち上げるのに面白いヤツを知りませんか?」と聞かれて「モヒカン刈りで歌っている新聞配達人がいる」と言っておいた。「オマエ、行ってみろよ」。さっそく出掛けて行った。

 待ち合わせ場所は、東京タワーの真下にあった東京12チャンネル(現テレビ東京)。マキ、後に「私は泣いています」の大ヒット曲で知られるりりィ、寺山修司が主宰する「天井桟敷」の劇団員の支那虎がいた。もうひとり、東京12チャンネルのディレクターの田原総一朗さんもいたなぁ。

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