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ヤクルト2位 モイセエフ・ニキータ 《生きていくために日本に来ました》父が明かす壮絶半生【ドラフト選手の“家庭の事情”】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年11月26日 9時26分

 モイセエフは小学1年から兄の影響で野球も始めた。土、日は朝から夕方まで白球を追い、夜は空手道場へ。セルゲイさんは「両方とも本気で取り組むように」と見守った。

 実のところ、セルゲイさんは息子たちが野球を始めた当初は、競技としての魅力を全く理解できなかった。外野を守っている息子はただ漫然と時間を過ごしているかのようにも見えて、もどかしさも感じていたという。

「分からないなら自分もやってみよう。そう考えたんです」と、セルゲイさんは少年野球の指導者に頭を下げ、子供たちに交ざって守備に就き、捕球動作や打球の追い方、ポジション取りなどを細かく尋ねたり、野球に関する本も読み漁った。

「驚きましたよ。たった数分の外野守備で足がパンパンになるなんて。実際にやるまで思いもよらなかった(笑)。息子が私の想像以上に試行錯誤、努力していることも理解できた。知れば知るほど野球の魅力を実感し、今ではすっかり好きになりました」

 モイセエフは小学4年から野球に専念し、阿東パワーズから東海ボーイズ小学部に移籍。空手をやめることにセルゲイさんは反対しなかった。その頃にはもう、空手に求めていたことは野球でも得られると理解していた。中学時代は愛知衣浦シニアに所属。複数の名門高校から声がかかったが、あえて当時甲子園出場歴1回(2014年春)の豊川(愛知)を選んだ。

陰の立役者は妻

「特に熱心に勧誘してくれたのが豊川でした。『必ず甲子園に連れていく』『プロを目指せるように育てる』と真剣かつ粘り強く伝えてくれました。指導者としてプロフェッショナルに息子を育ててくれるだろうと信じさせてくれました」

 豊川では1年春からベンチ入り。2年半の寮生活で体重は21キロ増の87キロに成長。今春センバツで聖地の土を踏むと、同大会から導入された低反発バットで「第1号」を放ち、卓越したパワーを証明した。

「プロに行けたのは本人の努力はもちろん、多くの指導者の方々に恵まれたおかげです。陰の立役者は妻と言いたいです。頼る親戚もいない中でニキータが野球に取り組めるよう、幼い三男、四男の面倒を見ながら、すべての時間を犠牲にして家族を支えてくれました。私の空手に文句を言わず、誰よりも応援してくれたのも妻。本人が表に出たがらないから、これを機に感謝を伝えたいです」

 今秋ドラフトで指名された高校生外野手はニキータただ一人。家族の結束を胸にプロの世界の荒波を乗り越えていく。

▽モイセエフ・ニキータ 2006年11月29日、愛知県刈谷市生まれ。4歳から空手を始め、阿久比東部小3年時に東海大会優勝。野球は小学1年から阿東パワーズ、小4から東海ボーイズ小学部、阿久比中時代は愛知衣浦シニアに所属。豊川高では3年春の甲子園で大会第1号をマーク。父との会話は日本語。ロシア語は日常会話はできるものの、読み書きはできないという。左投げ左打ち。身長182センチ、体重87キロ。

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