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【仰天野球㊙史】前代未聞の3重契約となった「黒バットの南村」…趣味は論語にクラシック、90歳の誕生日に亡くなった

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年12月12日 9時26分

【仰天野球㊙史】前代未聞の3重契約となった「黒バットの南村」…趣味は論語にクラシック、90歳の誕生日に亡くなった

巨人時代の南村侑広(不可止)選手=1957年2月(C)共同通信社

【仰天野球㊙史】#5

 戦後間もないプロ野球界の人気選手の中で、青バットの天才児こと大下弘と赤バットの打撃の神様こと川上哲治はまさにアイドルだった。これに対して「何? 青だの赤だの言っておるが、色バットはオレが先輩だ」と口癖だったのが、南村不可止(のち侑広)という名選手である。

 この南村、典型的なエリート選手だった。関西の名門、市岡中学のエース兼4番打者として名を知られ、京都商の沢村栄治と投げ合ったほどの実力者。早大では2度も首位打者を獲得した。その安打を製造したのが「黒バットの南村」だった。

 大手銀行に就職したもののプロ野球への憧れが強く、1950(昭和25)年にセ・リーグの西日本パイレーツに入団。32歳の高齢だったが、打率3割をマークするなど主力打者として力のほどを示した。藤本英雄が初の完全試合を達成したときの相手だった。

 ところがオフ、西日本がセ・リーグを脱退してパ・リーグの西鉄と合併。ここで問題となったのは西日本の選手の扱い。西日本の使える選手の取り合いになった。南村は西日本選手なのに西鉄が保有権を主張。西日本と西鉄は合併を前提に資本提携していたから、といわれている。そのあと巨人が南村と契約したものだから「3重契約」となった。巨人入りの正当性を連盟会長に文書で出し、それは新聞に掲載された。51年に巨人入りし、第2期黄金時代の主力として3番、5番を打った。同年の南海との日本シリーズでは打率5割6分3厘をマークしMVPに選ばれた。その打率は長くシリーズ記録として残った。

 趣味が他の選手とはまるで違った。論語を読みクラシック音楽を聴くといったもので、だから話が深い。解説者、評論家として活躍したのはそういう日ごろの背景があった。ひょうひょうとした感じで敵は皆無。背番号1は王貞治が引き継いだ。誕生した日(17年4月17日)と同じ日(90年)に亡くなった。

(菅谷齊/東京プロ野球記者OBクラブ会長)

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