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「本塁打50本超えた可能性はあったが…」3番にバース、5番に岡田がいた、4番バッター掛布雅之の考えたこと【1985年阪神タイガース日本一】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年2月26日 16時15分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

1985年に阪神タイガースは、華々しい優勝を遂げています。この優勝には、4番バッターとしてあるべき姿を追求した、元阪神タイガース掛布雅之氏の信念が大きく貢献していました。掛布氏の著書『常勝タイガースへの道 阪神の伝統と未来』(PHP研究所)より、阪神が優勝を成し遂げた要因をみていきましょう。

3番と5番を生かす「4番のバッターの役割」

4番はグラウンドの中ではエースピッチャーと同様に、ゲームに対する責任を背負わなければならない存在である。田淵さんが西武ライオンズに移籍した後、4番を任された私が意識していたことである。

ただ、自分が打たなければ勝てないという考え方では、本当の意味での4番打者の役割を果たすことはできない。

4番で、自分が打たなければ勝てないと思い込んでいるバッターがいるが、それは大きな間違いである。1試合4打席の中で、どういう仕事をして前後の選手を生かすことができるかを考えられる選手が、本当の4番だと私は思っている。

私自身は85年の阪神の日本一のときに4番を打ったが、前にバースがいて、後ろには岡田がいた。この2人のバッターは共にすごく調子がよかった。そのときに4番としてどういう仕事をすれば、3番と5番をつなげられるかを常に考えていた。

私は、15年間の阪神での野球人生において、85年の野球が1番我慢したシーズンだったと今なお思っている。

打率3割、40本塁打、108打点、そして94個のフォアボール。

私は4番打者として、「3割、40本塁打、100打点」というものを最低の目標として掲げていたが、それをクリアしたのは85年だけだった。引退してから冷静に総括すると、打席での我慢があったからこそ結果としてついてきた数字だった。

4番の私の調子が悪ければ、3番のバースは勝負を避けられてしまうだろう。そのような4番では失格だ。4番の強さを見せつけなければならない。「ひとつ間違えば」と投手心理をかく乱するものが私になければ、バースは歩かされて勝負してもらえなくなる。私は、バースの後ろ盾になるための条件として「40本以上のホームランが必要だ」と考えていた。チームの勝利に貢献できる真の4番打者の役割とは何か。そういうことを突き詰めてプレーした1年だった。

そして、仕掛けを遅らせた。

つまり、打ちにいくカウントを遅くしたのである。

私はどちらかというと、元々仕掛けが遅いタイプのバッターではある。しかし、さらに遅くした。甘いボールをあえて見送ったケースもある。

5番の岡田の調子がすごくよかったので、私が仕掛けを早くしてアウトになる確率を高めるよりも、仕掛けを遅くして、フォアボールの確率を高めた。4番の私が出塁することで、岡田につなげることができれば、それが得点につながる。

私は内野安打を打てるようなバッターではないので、岡田のホームランを得点につなげるためには、ヒットを打つ以上にボールを見極めて100個近いフォアボールを選ぶことが、阪神の得点につながるんだと考えていた。3番と5番に仕事をしてもらえるような、そういう4番というものが、私は本来あるべき4番の姿だと思っている。

もし、そういう我慢の打席を重ねずに、好きなボールを何も考えずに打っていれば、ホームランは50本を超えたのかもしれない。しかし、94個のフォアボールと、打率3割を達成できたかどうかはわからない。そして何より、その50本のホームランは、優勝につながるホームランにはならなかったのかもしれない。

優勝へ導いたのは「思いやりの連鎖」

前の人が後の人のことを考え、後の人が前の人のことを考える。そういう思いやりの連鎖が、打線を点から線へと変え、チームプレーや団結力というものにつながる。

阪神タイガースというチームの中で、俯瞰で見る4番に徹していたのだろうと思う。3番のバースが勝負してもらえるように強い4番でありなさい、40本近くホームランを打ちなさいと、俯瞰で見るもう1人の私が言う。それで後ろの岡田の状態がよければ、岡田にチャンスが広がるように我慢して100個フォアボールを選びなさいと、またもやもう1人の私が言う。

打席の中で我慢しながら、勝負していく。チームの優勝に飢えていた自分が、どこかにいたのだろう。勝つ喜びを感じたい。そして、あれだけ大勢の阪神ファンの方たちに、勝つ喜びで恩返ししたい。そうした気持ちが勝っていた。

よく「1人ひとりが自分の仕事を果たせ!」と言われるが、仕事とは、自己犠牲の精神をもってチームを考えることである。技術という裏付けがあってこその思いやりの連鎖ではあるが、勝利のための必須マネジメントだろう。

85年は、バースの55号ホームランがかかっていた。多くの投手がバースとの勝負を避けて、敬遠をして1塁に歩かせ、私に打席が回ってくる。10月16日のヤクルト戦でリーグ優勝を決めてから残り5試合あった。しかも最後の2試合は、当時のシーズン本塁打記録55本をもつ王貞治さんが監督を務める巨人戦。当然、巨人投手陣はバースとまともには勝負してこないだろう。私は、打率3割で終われるかどうかというところだった。もう優勝も決まっていたし、吉田義男監督に「代わるか? 休むか?」と打診された。

そのとき、大先輩の野村収さんに諭された。野村さんはNPBで初めて全12球団から勝利を上げた名投手だ。

「カケ、お前は3割打ったとか打たないとか、そういうレベルの選手じゃないだろ。ファンの前に、常にグラウンドに出て野球をやらなければいけない選手なんだよ。だから絶対、休んじゃ駄目だ。最後まで出なさい」

すごく重たい言葉で、嬉しかった。4番としてのみずからの存在を再確認できたときでもあった。

85年のシーズンが終わったときに、吉田監督がインタビューで優勝の要因を聞かれた際に「うちには日本一の4番バッターがいます」と言ってくれた。胴上げされたときよりすごく嬉しかったことを覚えている。

また落合博満さんが「この打線の中で、この仕事をできるのは掛布しかいない」と言ってくれた。これもすごく嬉しかった。4番としてタイトルを獲ることもすごく大切なのだが、チームの状態を考えて4番の野球も変化するという、そういう変化に対応できる4番でなければならないと思う。

思えば85年の優勝は、真弓明信、バース、掛布、岡田彰布と30発カルテットを擁して「打ち勝った野球」の印象が強いが、一方で木戸克彦捕手、岡田2塁手、平田勝男遊撃手、私が3塁手でゴールデン・グラブ賞を受賞した。バースの1塁も上手かった。

私は優勝の共同会見でこう言った。

「マスコミのみなさんは『200発打線』の一言で片付けがちですが、このチームは守り勝ったチームなんです」

「足、あし、あしぃ!」

内野手には足を動かすことを徹底させる吉田監督は、春季キャンプでメガホンを持って大声を出して選手を𠮟咤していた。まずは下半身を使って打球の正面に入るのだ。現役時代には「今牛若丸」と呼ばれた吉田監督。攻撃的に守備をすることを徹底的に鍛えられた。

85年の西武ライオンズvs.阪神タイガースの日本シリーズ第2戦、勝利インタビューで吉田監督は、勝利の要因として「ダブルプレーを3度取れたことが勝因です」と語っていた。

掛布雅之

プロ野球解説者・評論家

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