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『源氏物語』の〈いじめ描写〉は作者の実体験!? 陰湿な職場環境に病んでもなお、〈道長の娘・彰子〉に仕えていた紫式部

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年3月31日 10時30分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

紫式部と藤原道長、2人の物語で話題を呼んでいる大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。歴史の教科書に載っている貴族たちも次々に登場し、権謀術数渦巻く貴族政治を繰り広げます。ドラマで吉高由里子さん演じる“まひろ”はのちの紫式部。彼女の遺した『紫式部日記』を紐解くと、道長の娘・彰子に仕えた宮中の日々が明らかになっていきます。本稿では、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏による著書『平安の文豪』(ポプラ新書)から一部抜粋し、紫式部の生涯について解説します。

長編小説の最高峰

『源氏物語』は、平安貴族の宮廷生活における恋愛模様を描いた小説で、今から千年以上前に成立したとされる。全五十四帖(巻)の文字数はおよそ100万字、四百字詰の原稿用紙に換算すると、なんと約2,400枚にもおよぶ。

物語は「光源氏の誕生から栄華まで」、「光源氏の不幸な晩年」、「薫(表向きは光源氏の子)と孫の匂宮の話」の三部構成となっている。70年余にもわたる壮大なお話で、登場人物はなんと400人を超えるそうだ。その内容も秀逸で、我が国が生んだ長編小説の最高傑作と高く評価されてきた。

まずは『源氏物語』の冒頭(「第一帖 桐壺」)を紹介しよう。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。初めより我はと思ひ上がり給へる御方々、めざましきものにおとしめそねみ給ふ。同じほど、それより下げ﨟らふの更衣たちは、まして安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせ給はず、世の例ためしにもなりぬべき御もてなしなり」

中高生時代に学校で習うはずなので、記憶にある方も多いだろう。簡単に原文を意訳してみよう。

「多くの女御や更衣が仕えている中で、それほど身分は高くないが、天皇からたいへん寵愛を受けている女性がいた。このため、天皇の寵を得たいと思っている他の妃たちからひどく嫉妬され、いじめられた。そのストレスからか病気がちになり、里帰りすることが多くなったが、それでも天皇は彼女を愛し、特別に遇し続けた」

天皇(桐壺帝)に深く愛されたこの女性こそが、光源氏の生母・桐壺更衣である。ただ、彼女は光源氏が3歳のときに亡くなってしまう。やがて父帝は、桐壺更衣にそっくりな藤壺を女御として迎え、寵愛するようになる。だが光源氏も、母にそっくりな藤壺に惹かれ、強い恋心を抱くようになってしまう。

「光る君」と呼ばれ、イケメンに成長した光源氏は、多くの女性と恋愛を重ねつつも、藤壺への思いを断ちきれず、なんと彼女と情を通じてしまうのだ。父の女御なのに!

しかも不倫の結果、藤壺は光源氏の子を身ごもり、男児を出産する。その不貞に桐壺帝はまったく気がつかず、やがてその男児が東宮(皇太子)となり、11歳で即位して冷泉帝となってしまうのだ。

『源氏物語』とは、ビックリするくらいの昼メロ的なドロドロな話なのである。この後もスゴい内容が続いていくが、これ以上、『源氏物語』の内容を書き続けると、ページがなくなるので、とりあえずはこれくらいにして、作者・紫式部の紹介に移っていこう。

宮中の陰湿な職場環境

冒頭で述べたように、『源氏物語』は天皇の後宮におけるいじめの描写から始まる。じつはこれ、紫式部の実体験だったと思われる。

紫式部は、一条天皇の中宮・藤原彰子の女房として30代前半に宮仕えを始めたとされる。彰子は、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の長女である。

紫式部に期待されたのは彰子に教養をつけること、つまり教育係としての役割だったと思われる。

ただ、彰子の女房は20人ほどいたが、出身階層は一様ではなかった。

「道長・倫子夫妻が集めてきた女房集団は寛弘五年(1008)敦成親王(後一条)誕生時に役をつとめた讃岐宰相君(藤原豊子、道長兄藤原道綱女)、大納言君(源廉子、倫子兄弟源扶義女)、小少将君(倫子兄弟源時通女)など、ともに倫子の従姉妹で『やんごとなき』公卿(現在の閣僚)クラスの娘や、紫式部や同年代の和泉式部など評価の高い作家や歌人、さらにそれより若い世代だが数代続く和歌の名門で文学界の重鎮、大中臣輔親を親に持つ伊勢大輔など」(服藤早苗・高松百香編著『藤原道長を創った女たち〈望月の世〉を読み直す』明石書店)だという。

とあるように、彰子の女房集団は、道長・倫子の親戚を含む公卿クラスの娘(上﨟(じょうろう)女房)と紫式部のような中・下級貴族の才女が混在していたうえ、さらに年齢層も幅広かったのだ。

とくに紫式部は、道長の招きで彰子に仕えたという経緯があったため、当初から上﨟女房たちに鼻持ちならない女だと思われ、女房たちは新入りの紫式部を無視した。

これに閉口した紫式部が、仲良くしてくれるよう歌を送ったが、彼女たちからは返事すら来なかった。このためメンタルを病んだ紫式部は実家へ戻り、そのまま5カ月間も出仕できなくなってしまった。

こんな話もある。彰子が初産を終えて実家から宮中へ戻るさい、これに付き従った紫式部は、馬の中将という上﨟(じょうろう)女房と同じ牛車になった。すると彼女は、「わろき人と乗りたり(嫌なヤツと乗ることになった)」と不快感をあらわにしたのだ。

また、あるとき一条天皇が『源氏物語』を女房たちに朗読させていたが、急に冗談で「これを書いた人は、私に日本書紀(日本紀)を読んでくれないかな。講義できるだけの教養がありそうだ」といった。

すると、これを聞いていた左衛門の内侍(天皇付きの女房)が殿上人たちにそれをいいふらしたので、紫式部は「日本紀の御局(女房)」というあだ名をつけられてしまったのだ。

この左衛門の内侍は、紫式部を目の敵にし、あることないこと陰口をいいふらす女であり、紫式部自身もうんざりしていたと『紫式部日記』で告白している。

何とも陰湿な職場である。そもそも宮仕えなど、まともな貴族の女性がする仕事ではないと思われていた。それに関しては、清少納言の項で触れたので繰り返さないが、どうして紫式部は、この世界に飛び込んだのだろうか。

そのあたりの事情について、生い立ちも含めて簡単に述べていこう。

河合 敦

歴史研究家/歴史作家

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