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宿敵フランスに戦争で圧勝し、ドイツ帝国に多大な貢献を果たした“天才”宰相・ビスマルクだったが…“上司”である次の次の皇帝にあっけなくクビにされた、まさかの理由【世界史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年6月20日 8時0分

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19世紀後半、ナポレオン3世率いるフランスは、普仏戦争をきっかけに帝政崩壊の道を歩みます。一方、フランスの孤立化を図るドイツ帝国は、同じくフランスと対立するオーストリアやイタリアと手を組み、同盟を結びます。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、この時期のヨーロッパの覇権争いについて、詳しく見ていきましょう。

アメリカ市民戦争の間に、ナポレオン3世がメキシコ介入

市民戦争(南北戦争)が始まった1861年、ナポレオン3世がメキシコに介入します。メキシコでは、先住民出身のベニート・フアレスが中心となって、自由主義的な改革運動が盛んになっていました。ナポレオン3世は、オーストリア皇弟のマクシミリアンをメキシコ皇帝に即位させます。

しかし、1865年に市民戦争が終わると、アメリカとことを構えては危険と判断したナポレオン3世は、メキシコ撤兵を決意します。マクシミリアンは1867年、フアレス率いる軍に銃殺されました。

ドイツ統一を目指すビスマルク、イタリアにならって密約を結ぶ

プロイセンは、ドイツの統一を目指していました。それにはオーストリアと戦わなくてはなりません。プロイセンの宰相ビスマルクは、ナポレオン3世が、イタリア統一を目指すカヴールと密約を結んだことを知っていました。

だから、ナポレオン3世と密談して、「こっちにも口を挟まんといてね」という約束を取り付けてから、オーストリアと戦争を始めました。プロイセンはオーストリアをぼこぼこにしてしまいます。

オーストリアはドイツの領地を失い、ハンガリーが残されました。オーストリアはハンガリー政府を認める代わりに、国王はオーストリア皇帝が兼ねるという約束をします。こうして1867年、二重帝国のオーストリア=ハンガリー帝国が誕生しました。

電報を編集して、フランスを罠にはめたビスマルク

1869年にスエズ運河が開通した翌年、「エムス電報事件」が起きます。

ことの発端は、スペインで革命が起きて、国王が追放されたことです。スペインは共和政になりましたが、わずか1年で、やはり王政の方がいいとなってブルボン朝が復活します。

新しい国王が選ばれるまでには紆余曲折があり、候補としてプロイセンの王族の名前も挙がりました。隣のフランスにしてみたら、えらいことです。そんなことになったら、西も東もプロイセンの王族に挟まれてしまいます。ナポレオン3世は反対し、ヴィルヘルム1世も「そんなことはしない」と明言して、いったん騒ぎは収まります。

ところがフランス大使が、エムスという温泉に滞在していたヴィルヘルム1世のもとを訪ねて話を蒸し返します。「もう絶対に、スペインにちょっかいを出しませんね」と。ヴィルヘルム1世は怒ります。「俺は明言してるやないか。スペインに野望はあらへんでと。おまえ、失礼なやつやな」と。それでベルリンにいる宰相ビスマルクに電報を送ります。「ビスマルクや、フランスの大使がこんなことをしよったで。ほんまにしょうもない国やな」と。

ビスマルクはこの電報を巧みに編集してプレス発表します。「礼儀作法を知らないフランス人がプロイセン国王に無礼なことをして追い返され、尻尾を巻いて逃げていった」といった感じです。これにフランスの世論は激高し、何の準備もないのにプロイセンに戦争を仕掛けます。ビスマルクは用意周到にこれを待っていたわけです。

こうして1870年、普仏戦争が始まり、プロイセンが圧勝します。

ナポレオン3世に皇后が愛想をつかし、第2帝政が崩壊

プロイセンとの普仏戦争が始まったとき、フランスのナポレオン3世は、長年の放蕩がたたって、歩くのもやっとという状態でしたが、ガールフレンドたちと遊ぶのをやめません。ナポレオン4世という賢い子どもがいた皇后は、夫に愛想をつかします。「あなたが戦場にいったらフランスの将兵が発奮してきっとプロイセンをやっつけますよ。パリは摂政の私と皇太子で守りますから」と、夫を送り出しました。

ナポレオン3世は足を引きずりながらセダンにいき、包囲されます。そこで必死に戦うかと思いきや、あっさり降伏するのです。「どうせ負けるのだったらフランス人の血を流さない方が、フランスのためや」と。ナポレオン1世とはえらい違いです。

これで第2帝政は瓦解します。

ナポレオン3世はフランスに居場所がないので、家族ともどもロンドンに亡命します。屋敷は昔のガールフレンドが準備してくれました。不思議な人ですね。

外交の天才ビスマルクが、フランスを孤立させる

フランスの第2帝政が崩壊すると、新生ドイツ帝国が樹立されます。初代皇帝となったヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿で戴冠式をします。この場所を選んだのは、かつてベルリンをナポレオンに占領され、プロイセンの領土が半減した仕返しですね。これがまた第1次世界大戦後にひっくり返るわけです。怨念は怖いですね。

ビスマルクは大変賢い人で、この戦争でフランスがドイツを恨んでいるということを十分認識していたので、フランスを孤立させようと考えます。

まず1873年にオーストリア、ロシアと三帝同盟を結びます。そして、オーストリア、イタリアと三国同盟を結びます。オーストリアとイタリアは、ヴェネツィアとロンバルディアを巡って争っていた仇敵ですよね。それでも、ビスマルクの口車に乗ると同盟を結んでしまうのです。ビスマルクは外交の天才です。

こうしてビスマルクは、ロシアとオーストリア、イタリアと上手に同盟を結んでフランスを孤立させることに成功しました。

「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」

ビスマルクは外交の天才でしたが、大変わがままな人でした。自分が提案したことに対して、皇帝が決断を渋ると、田舎の領地に帰ってしまいます。皇帝が折れるまで2ヵ月でも3ヵ月でも引きこもっています。

ひどい部下ですね。

ヴィルヘルム1世は名言を残しています。

「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」

でも、誰よりもすごいのは、こんなわがままな部下でありながら、その能力を認めてずっと使い続けたヴィルヘルム1世ですよね。ドイツ帝国の幸運です。

外交を理解しないヴィルヘルム2世が「サンドイッチの具」にされる

そのヴィルヘルム1世が没すると、子どものフリードリヒ3世も即位してすぐ死去します。

そこでヴィルヘルム1世の孫のヴィルヘルム2世が即位しますが、このころからプロイセンはおかしくなります。ヴィルヘルム1世は「ビスマルクを大事にせんとあかんで」と遺言を残していましたが、ヴィルヘルム2世は我慢しきれず、即位から2年後の1890年にビスマルクをクビにします。

ヴィルヘルム2世には高度な外交が理解できませんでした。ビスマルクはロシアの南下政策を牽制しながらも、同盟や条約を結ぶことでなだめていました。そんなロシアとの関係を、ヴィルヘルム2世は、直情的に断ち切ってしまいます。

心配になったロシアは1894年、フランスと同盟を結びます。露仏同盟です。今度はプロイセンが、ロシアとフランスに挟まれ、「サンドイッチの具」になってしまいました。

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU) 名誉教授・学長特命補佐

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