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アメリカのオークションでの落札値は8,500万円超え!…トヨタの「F1参戦」が生んだ、伝説の〈レクサス〉

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年6月4日 16時0分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

スポーツカーの開発において、「エコ」との折り合いをつけていくことは不可避です。「燃費しか追求していないように見えるハイブリッド車の技術も、レースの現場で磨かれた先端技術が降りてきてこそ燃費が向上する」と、自動車評論家の鈴木均氏はいいます。鈴木氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、2000年代の日本車の開発事情について、詳しく見ていきましょう。

2007年、日産GT−Rがスポーツカーとして「復活」

2000年代後半、日本勢で気を吐いたのは、日産だった。

1999年に「コスト・カッター」カルロス・ゴーンを迎え、「贅沢品」である日産フェアレディZやスカイラインGT−Rが切り捨てられるのか、と当初は心配された。しかしゴーンは新生Zを2002年に登場させ、コスト削減だけではない車づくりを打ち出した。

Zは08年にモデルチェンジするが、その前年に復活したのが、日産GT−Rだ。正確には、伝統の直6エンジンを積んだスカイラインGT−Rとしての復活ではなく、スポーツ・セダンであるスカイラインを別モデルとして切り離し、純粋なスポーツカー、否、スーパーカーGT−Rとして、新生スタートしたのである。

3.8リッターのV6エンジンは横浜工場で職人の手で組まれ、各号機には職人の名前がプレートに刻まれる。完成車の組み立ては栃木工場だが、スカイラインと一緒のラインで組み立てられる。これは価格を抑えたいゴーンの意向であり、サラリーマンがぎりぎりローンを組んで買える飛び道具が777万円(初代)で提供された。

英『トップ・ギア』誌のGT−R評は、無慈悲に速く、ライバルとなる(フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェなど)スーパーカーを喰うポテンシャルがありながら、一回り以上廉価、というものだ。最高時速は340キロ近くに達する。

GT−Rはエコに逆行しているようにしか見えないかもしれない。しかしF1、WRC、ル・マン24時間耐久レース、サファリ・ラリーなど、「非エコ」に見えるどの世界選手権も技術の最前線を開拓しているのであり、燃費しか追求していないように見えるハイブリッド車の技術も、レースの現場で磨かれた先端技術が降りてきてこそ燃費が向上する。

その後、日産はEVを武器にフォーミュラEに、トヨタはハイブリッドを武器にル・マン24時間耐久レースに挑戦するのである。

リーマン・ショックとGMの首位陥落

2008年9月、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズがアメリカ史上最高の負債総額で経営破綻し、瞬く間に世界的な金融危機となった。ドル安円高のせいで輸出が冷え込み、日本は景気後退に飲み込まれていった。日本車よりも影響が深刻だったのが、米ビッグ3だった。

2000年代になり、ハリウッド・セレブたちがこぞってハイブリッド車に乗り換えるなか、ビッグ3は時代の流れに抗うように伝統的な大きいアメ車を作り続けた。しかし売れ行きが芳しくなく、GMは次々に海外の提携先を切りはじめた。2005年にスバル株をトヨタに売却し、06年にいすゞとの資本提携をトヨタに譲った。なお同年にGMはスズキ株も売却し、スズキはフォルクスワーゲンとの提携が取り沙汰されたが、15年に解消、同年に名物社長、鈴木修も退任している。

GMは傘下のサーブが経営破綻し、ついに09年6月、アメリカ製造業史上、最多の負債総額で経営破綻した。GM株の6割をアメリカ政府、4割をカナダ政府と労組(UAW)が保有する、国有企業として再出発した。リーマン・ブラザーズと並び、「大き過ぎて潰せない」ことの賛否がアメリカで盛んに議論された。バーラ女史が社長に就任するのは、アメリカ政府が保有株を全て売却して債権を回収した直後の、2014年初めである。

2007年当時、GMは世界自動車販売台数でかろうじてトヨタを抑えて首位を死守していたが、リーマン・ショックが襲った08年、ついに首位陥落した。77年ぶりの陥落は、自動車史の大きな一章の終わりであった。GMをはじめアメリカ勢の衰退を見て、自由化よりもむしろ国家による規制と徹底した国家支援に自信を深めたのが、上り一本調子の中国だった。

トヨタのF1参戦

21世紀に突入した当初は、エコの時代が来た、日本車の時代が来た、という空気があった。だが21世紀の最初の10年の後半になると、日本がグローバルな最先端から置いていかれるようになった。風向きを反転させる試みを、トヨタのF1参戦とアメリカでのリコール「問題」をとおして振り返ろう。

『トヨタ・モータースポーツ』のホームページによれば、F1参戦の決断は1999年、奥田碩社長まで遡るものであり、新しく登場したハイブリッド車の売り込みと同時期だった。パナソニック・トヨタ・レーシングは、WRCやル・マン24時間耐久レースに参戦するための拠点だったドイツのケルンを本拠地とした。

80年代にホンダがF1に参戦したときのように、通常、自動車メーカーが参戦するときは、経験豊富なコンストラクター(80年代のホンダの場合はマクラーレン)とタッグを組むのが普通だ。トヨタはイチから自らF1参戦チームを創設するという、新しい大きな挑戦に出たのである。

2002年に初参戦した際のマシンTF102は、3000㏄のV10エンジンが835馬力を発生し、車重は600キロだった。昭和の時代の軽自動車ほどの車重に、軽のエンジンを12基ほど積んだような怪物である。初年度は苦戦するかに思われたが、開幕戦のオーストラリアGPで6位に入賞した。

当時参戦チームのなかでも屈指の予算を誇り、2005年にミハエル・シューマッハの弟、ラルフがチームに加入して過去一番の戦績を残した。マレーシアGP、バーレーンGPで2位となり、チームに初の表彰台をもたらした。日本GPでは予選最速、本戦をポールポジション(先頭の1番枠)からスタートし、チームを年間コンストラクター4位に押し上げた。

2009年シーズンが終了した後の11月、その5ヵ月前に社長に就任したばかりの豊田章男は会見を開き、コスト削減とエコカーの開発に専念するとし、F1撤退を発表した。

前年には2000年から再参戦していたホンダも撤退していたが、背景には2008年9月に端を発するリーマン・ショックと世界的な金融危機があった。2009年の日本GPではヤルノ・トゥルーリが2位で完走し、初めて日本GPで日本のメーカーが表彰台に上ることになったのだが、トヨタは同年に59年ぶりの赤字を計上していた。

撤退会見でF1チームの責任者は、「(環境を重視した)プリウスだけのレースがワクワクするかと言えば、そうではないと思う」と悔しさをにじませた。「その」プリウスで培ったシステムを武器に、トヨタはル・マンで他日を期すことになる。

トヨタのF1参戦は、唯一無二の鬼子を産み落とすこととなった。撤退直後、2009年の東京モーターショーでお披露目された、レクサスLFAである。

ヤマハと共同開発したエンジンは排気量こそ拡大された4800㏄、最高出力は560馬力だが、F1と同じV10で、TF102に近い。車重を徹底的に軽くするため、車体は豊田自動織機と共同でカーボン(炭素繊維)で開発され、元町工場の職人たちの手で一日一台、組み立てられた。

LFAは2010年から2年間、わずか500台が生産され、37万5,000米ドル、国内では3,750万円で発売された。最高速度325キロを誇り、見た目も性能も圧倒的なLFAは、当時F1のトップ・ドライバーだった英ルイス・ハミルトンに「最も欲しい車」として指名された。すでに生産を終えて10年経つが、レクサスのホームページには今も「Fシリーズの頂点」としてLFAが掲載されている。極上のコンディションの中古車は、アメリカのオークションで78万米ドル(8,500万円)で落札されている。

鈴木 均 合同会社未来モビリT研究 代表

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