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きっかけは「講和条約」だった…第1次世界大戦後、ドイツにナチスが台頭するに至った〈知られざる要因〉【世界史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年7月29日 10時0分

きっかけは「講和条約」だった…第1次世界大戦後、ドイツにナチスが台頭するに至った〈知られざる要因〉【世界史】

(※写真はイメージです/PIXTA)

第1次世界大戦は、工業生産力の高いアメリカの参戦と、スペイン風邪の流行により終結しました。結ばれた講和条約の内容はどのようなものだったのでしょうか。終結後の各国の動きを見ていきましょう。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。

アメリカ参戦で工業生産力の拮抗が崩れる

1916年の年末、ドイツが「もうしんどい。講和したい」と漏らしました。

それを受けて翌年、アメリカが「こんな戦争を続けていたらあかんで」と、仲介役を買って出ます。ところが、この申し出を英仏ロの連合国が蹴ります。「ここでドイツをやっつけないとえらいことになるで。やめられんで」と。

困ったドイツは、通商破壊作戦(無制限の潜水艦作戦)を始めて、連合国の船を徹底的に沈めます。アメリカはこれに怒って参戦します。

アメリカの参戦で、第1次世界大戦の帰趨は決しました。ドイツ組と大英帝国組の工業生産力は1:1で拮抗していましたね。それがアメリカの参戦で1:2強になるわけですから。

火事場泥棒を働いた日本は、中国の恨みを買う

日本はヨーロッパの戦争と何の関係もありませんが、日英同盟を名分に勝手に参戦します。そして中国にあるドイツの植民地を奪っていきます。列強はヨーロッパの戦争で死に物狂いなので、ちょっとくらいアジアで勝手をしてもいいだろうと考えたのです。1915年、「対華21ヵ条の要求」を出します。中国に、「日本のいうことを聞け。韓国のように」と要求したのです。要求した相手は袁世凱です。

袁世凱はひどい人ですが、さすがに中国人の魂は持っていました。火事場泥棒のような日本の要求に腹を立て、日本の要求を上手にプレス発表します。中国の人々は激怒します。21ヵ条の要求を承認した5月9日は「国恥記念日」とされ、反日感情が巻き起こります。

第1次世界大戦を講和に導いたパンデミック

1918年に入るとスペイン風邪がアメリカから広がり始めます。いわゆる、インフルエンザですね。恐ろしいパンデミックで、第1次世界大戦で死んだ人よりも多くの死者を出したとされます。そのために両軍ともやる気が失せてきます。

そんなとき、ドイツのキール軍港で水兵が反乱を起こします。これがきっかけとなって、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位して、ネーデルラントに亡命し、ドイツは休戦協定に署名します。第1次世界大戦が終結しました。

皇帝が逃げ出したドイツでは、ヴァイマール共和国が生まれ、民主的なヴァイマール憲法ができます。オーストリアの二重帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)は解体され、ハンガリーやチェコスロヴァキア、ユーゴスラビア王国が独立。小さくなったオーストリアは、オーストリア共和国になりました。

ウィルソン大統領の理想を、リアリストの英仏首相が打ち砕く

第1次世界大戦が終わり、パリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ体制が始まります。

講和会議を仕切ったのは、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンと大英帝国の首相ロイド・ジョージ、フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーの3人でした。

ウィルソンは理想家で、「こんな戦争はもう二度とやったらあかん」「国際連盟をつくらないとあかん」と、熱く主張します。フランスのクレマンソーは筋金入りのドイツ嫌い。このチャンスにドイツが二度と起き上がれないように痛めつけてやろうと手ぐすねを引いています。理想もへったくれもないリアリストです。ロイド・ジョージは、英国人らしい現実主義者ですから、クレマンソーにつきます。

このような構図で始まったヴェルサイユ体制はどうなったでしょうか。

国際連盟は発足しましたが、ウィルソンの主張は反映されていませんでした。そして提唱したはずのアメリカは上院が否決して、国際連盟に入りませんでした。

クレマンソーが欲を出した賠償金が、ヒトラーの陰謀論を生む

講和会議で、クレマンソーは欲を出し、ドイツに1,320億金マルクという賠償を課します。金マルクはドイツ帝国で使用された通貨で、1320億金マルクというと、当時の日本の国家予算のおよそ40年分です。今の日本の予算は100兆円くらいですから、40年分といえば4,000兆円。当時のドイツ国民1人に対して6,000万円以上の負担です。

最終的には、30億金マルクぐらいに減額されましたが、むちゃくちゃな要求です。

ドイツ国民は「おかしい」と激怒します。第1次世界大戦の戦況を振り返れば、アメリカ参戦で劣勢にはなったけれど、ドイツ国内に一兵たりとも敵兵は入れませんでした。ロシアには勝っていましたから、ドイツ国民にしてみれば「引き分けかな」というくらいの感覚です。最後は分が悪くなったにしても、「6:4」くらいの条件に落ち着くと見ていました。それが、蓋を開けたら1人6,000万円です。

これが、ナチス台頭の素地になります。パリ講和会議が開かれた年にドイツ労働者党が結成され、ヒトラーが入党します。ヒトラーは「ドイツは負けたのではない。ユダヤ人と国際資本の陰謀にはめられた」という理屈を展開して、支持を集めていきます。

民族自決のダブルスタンダードに、トルコのアタテュルクが抵抗

理想主義者のウィルソンは「民族はすべて自分の国をつくる権利がある」という「民族自決」の方針を打ち出します。その結果、ハンガリーやチェコスロヴァキアなど、新しい独立国が生まれます。オスマン朝と連合国が結んだセーブル条約では、クルド人とアルメニア人の独立も認められていました。

しかし、クレマンソーとロイド・ジョージが結託して、「民族自決は、負けたドイツとオーストリア、オスマン朝の領地、植民地にしか適用しない」ことにしてしまいました。大英帝国の生命線のインドも当然、独立できません。ダブルスタンダードです。

このダブルスタンダードに猛然と反対したのが、トルコのムスタファ・ケマルです。

第1次世界大戦後、アンカラで政権を樹立したケマルは、クルド人やアルメニア人の独立を実力で阻止し、トルコの一体性を守ろうとします。英仏は、これをトルコの内政問題として不問に付しました。ケマルはケマル・アタテュルク(トルコの父)と呼ばれ、トルコの英雄になります。しかし、今日も続くトルコのクルド人の問題は、ここから始まっているのです。

自由な上海フランス租界で、中国共産党が誕生

中国の上海には、いろんな租界がありました。いわば列強の植民地です。

租界には中国の権力が及ばないので、自由がありました。だから、中国共産党は1921年、上海のフランス租界で誕生しています。韓国の若き独立運動の志士で、やがて大統領になる李承晩も1919年、やはり上海のフランス租界で臨時政府をつくっています。上海はある意味、自由な街でした。

ロシアは、第1次世界大戦中にレーニンが革命を起こし、戦線から離脱していました。その後、内戦が続いていましたが、1922年、ロシア共産党が勝ち抜き、スターリンが書記長になって、ソヴィエト連邦が成立します。

国際協調と軍縮の時代に、日英同盟が破棄される

世界は国際協調と軍縮の時代に入ります。第1次世界大戦では戦車や戦闘機、毒ガスも登場して、凄惨なことになりました。「さすがにやりすぎた」「こんな愚かなことをやってたらあかん」と、みんなが反省したのですね。

1921年、ワシントン会議が開かれます。史上初の軍縮会議です。ここで英米仏日の4ヵ国条約が結ばれました。

このとき、日英同盟は破棄されました。ロシアが混乱に陥ったので不要になったということもありますが、中国で火事場泥棒を働いた日本に、欧米が疑惑の目を向けたという事情もあったようです。

1925年、ドイツとフランスが、「もう喧嘩はやめようね」と、ロカルノ条約を結ぶと、世界は明るい空気に包まれました。しかし、同じ1925年にヒトラーの著書『我が闘争』が出版されています。

 

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU) 名誉教授・学長特命補佐

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