1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. 経済

歴史は変わっていた?…ヒトラーの独裁体制開始→ドイツの強国化を連合王国・フランスが見逃してしまった「残念すぎる事情」【世界史】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年8月8日 10時0分

歴史は変わっていた?…ヒトラーの独裁体制開始→ドイツの強国化を連合王国・フランスが見逃してしまった「残念すぎる事情」【世界史】

20世紀前半、パリ不戦条約が締結されるなど国際社会で広まりつつあった国際協調の機運が、ニューヨーク株式市場の暴落によって失われました。その流れのなかで台頭することになるヒトラーと、それを許してしまった英仏、中国への攻勢を続ける日本の動向を、立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。

張学良を甘く見た日本

中国では、孫中山の跡を継いだ蔣介石が、北京の軍閥政府を倒すために動き始めます。そして1927年、南京に国民政府をつくります。孫中山は第1次国共合作で共産党と手を組みましたが、蔣介石は反共クーデターを起こして決裂します。

日本はこれを機に、山東半島に出兵するなど、中国にちょっかいを出します。

蔣介石の軍が北京に入ります。すると、北京で軍閥政府を取り仕切っていた張作霖は北京を捨てて、特別列車で故郷の満洲に向かいます。この列車を日本軍が爆破し、張作霖を殺害します。

張作霖は満洲の大軍閥の総帥で、張学良という子どもがいました。張学良は、アヘンを吸ってはガールフレンドと遊んでいます。「この息子なら簡単に操れて、満洲の利権を奪える」と考え、お父さんを殺したのです。これに張学良は激怒し、宿敵の国民党政権と組んで、日本に抵抗を始めました。プレイボーイでも、中国人の魂を持っていました。

国際協調路線に、大不況が水を差す

1928年、パリで不戦条約ケロッグ=ブリアン条約)が結ばれます。国際紛争を解決する手段として軍事力を放棄するという画期的な内容で、今の日本国憲法のベースとなっています。国際協調路線はピークに達し、世界は平和に向かうように思われました。

ところが1929年、「暗黒の木曜日」を境に、ニューヨークの株式市場が暴落します。世界が突然、大不況に陥りました。世界恐慌です。

英仏やアメリカは、それぞれの植民地を守って、自分のグループだけでも生き残ろうとします。ブロック経済の始まりです。そんなことをされては、植民地を召し上げられたドイツは生きてはいけません。経済不況がドイツでナチスを勢いづかせることになります。

ドイツに課せられた賠償金の1,320億金マルクは358億金マルクに減額され、最後は30億金マルクまで減額されます。支払い不可能なことは明らかなんですから、最初から30億金マルクにしておけばいい話です。

30億金マルクに引き下げた1932年7月、ドイツの国会選挙でナチスが第1党になりました。

「7」と「6.975」の違いが許せない日本は、グランドデザインを見失う

日本は、国際協調の枠組みから自ら離脱していきます。

1930年に開かれたロンドン軍縮会議は、巡洋艦や駆逐艦といった「補助艦」を削減するため、各国の保有割合を決める会議でした。日本が要求したのは、対英米比で「10:7」で、最終的に「10:6.975」で妥結しました。限りなく「10:7」に近いですよね。首相の浜口雄幸が粘ったからです。

ところが、天皇陛下が「10:7」と決めたのに、「10:6.975」で妥協したのはけしからんという、めちゃくちゃな理由で、浜口は殺されてしまいます。そして1936年、日本は軍縮会議から離脱します。

なんと愚かなことでしょう。当時、アメリカのGDPは日本の3倍以上ありました。つまり、軍縮会議がなければアメリカは、日本の3倍以上の艦隊をつくれるわけです。アメリカは大西洋と太平洋に面していますから、艦隊が10あったとして、太平洋側の日本に向けられるのは半分の5です。

アメリカの6割の規模の艦隊があれば、日本の方が有利です。それなのに「10:7は絶対で6.975はけしからん」などといって交渉が決裂すれば、アメリカは日本の3倍くらいまでやすやすと艦隊を強化できるわけです。

明治維新のグランドデザインは、阿部正弘が開国に際して示した「開国・富国・強兵」です。この3大方針のうちの「開国」、すなわち国際協調を、日本は捨ててしまいました。

 

「大甘」のリットン報告書を拒否して、国際連盟離脱

張作霖を殺害した日本軍は、満洲でさらに柳条湖事件を起こします。1932年には、清朝最後の皇帝の溥儀を祭り上げ、満洲国の建国を宣言します。めちゃくちゃです。これは放っておけないということで、国際連盟がリットン調査団を満洲に派遣します。

リットン調査団は報告書を出しましたが、これが大甘でした。「満洲国の主権は中国にある」といいつつ、「日本の権益も尊重する」というのです。だから「非武装の自治政府をつくることを提案する」と。

満洲の主権が中国にあるのは当たり前の話です。では「日本の権益」とは何でしょう。勝手に軍隊を送り出して中国から奪い取ったものです。こんな大甘な報告書ですから、「はい、わかりました」と認めてしまえばよさそうなものです。こんな幸運を、日本は自ら蹴とばします。満洲国の承認にこだわって1933年、国際連盟から脱退します。

この年にアメリカで大統領に就任したのが、フランクリン・ルーズベルトです。ルーズベルトは、公共事業に投資するニューディール政策を進め、経済を立て直していきます。

瞬く間に成立したヒトラーの「第3帝国」

ドイツでは1932年7月、ナチスが第1党になりましたね。翌1933年1月、大統領ヒンデンブルクは、ナチスの党首ヒトラーを首相に指名します。ヴァイマール共和国の重鎮は、ヒトラーを操れると思っていたのです。なにしろ最初のヒトラー内閣では、閣僚が二十数人いるなかで、ナチスからの入閣はわずか3人でした。

同年2月、国会議事堂放火事件が起きます。ヒトラーは、これを「共産党の仕業だ」と喧伝すると、3月には全権委任法を強引に成立させて、独裁体制を築いてしまいます。放火事件にはナチスが深く関与していたといわれます。

1934年、ヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務し、「総統」と呼ばれるようになります。これを「第3帝国」と呼びます。神聖ローマ帝国、そしてビスマルクがつくったドイツ帝国に続く3番目の帝国という意味です。

日本に続いて、ヒトラーのドイツも、ムッソリーニのイタリアも国際連盟を脱退しました。国際協調の時代は終わりを迎えつつあります。

賠償金の負い目がある英仏が、ヒトラー台頭を見逃す

1935年、ナチス・ドイツは徴兵制を導入し、再軍備を始めます。1936年、ヒトラーはロカルノ条約を破棄して、非武装地域であった西のラインラントにドイツ軍を進駐させます。徴兵制を始めてわずか1年ですからドイツ軍はまだ弱い。

このときに英仏が毅然とした態度を取っていたら、その後の歴史は変わったかもしれません。けれど、英仏には、賠償金を吹っ掛けすぎたという負い目もあって、見逃してしまうのです。

政党政治を骨抜きにした、軍部「現役」武官制

ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、日本では二・二六事件が起きて軍部独裁が進みます。さらに総理大臣の広田弘毅が、軍部大臣現役武官制を復活させます。もともとは山縣有朋が1900年につくった制度で、「陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でないといけない」というものです。

これは山縣の悪知恵で、内閣ができても、軍部が大臣を出さなければ、内閣は倒れてしまいます。さすがに「こんな愚かな制度があるか」ということで、海軍出身の山本権兵衛が総理大臣のときに「現役」という条件を外し、OBでもいいことにしました。

これなら、内閣は軍部のいいなりにならなくて済みます。それを、軍部が怖くなった広田弘毅が元に戻してしまったのです。日本の政党政治は骨抜きになります。

張学良が西安事件で見せた胆力

中国では、蔣介石の国民政府が共産党の打倒に乗り出し、攻撃していました。共産党は、大長征で逃げ回ります。逃げ回る途中でリーダーになったのが、毛沢東です。

そして1936年、西安事件が起きます。張学良という人がいましたね。若いときはアヘンを吸って遊んでいるプレイボーイでしたが、実は根性があります。お父さんが殺されると、蔣介石の国民党と結んで日本に抵抗を始めたのでしたね。

この張学良が西安で、上司の蔣介石を監禁して、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきているのに、共産党と喧嘩している場合か。一致団結して日本を倒すのが先だろ」と。

毛沢東は、周恩来を西安に送り込みました。西安で、周恩来と蔣介石、張学良が話しあい、蔣介石は解放され、国民政府と共産党が協力して、日本に対抗しようということになりました。

けれど、蔣介石はものすごく執念深い人で、自分を監禁した張学良を許さず、その後、長く拘束しました。第2次世界大戦後に台湾に逃げたときも、蔣介石は張学良を連れていき、拘束を解きませんでした。解放されたときには晩年を迎えていました。100歳まで生きて、回顧録を残しています。めちゃ立派な人です。

「国民政府を相手にせず」で、日本は交渉のカードを失った

1937年、盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まります。

首相の近衛文麿は翌年、「爾後、国民政府を相手にせず」という声明を出します。おかしいですよね。戦争している相手を「相手にしない」とは、どうやって戦争を終わらせるのかという話です。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。それに比べると、いかに国の指導者の能力が落ちていたかということです。

相手にしないということは、交渉するという選択肢を自ら捨てることです。交渉しない以上、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。泥沼への突入です。

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU) 名誉教授・学長特命補佐

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください