1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. 経済

「インドシナへの進駐」がアメリカの怒りを買い〈石油禁輸〉に…窮地に陥った日本が、アジア・太平洋戦争という「最も厳しい道」を選択せざるを得なかったワケ【世界史】<br />

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年8月15日 10時0分

「インドシナへの進駐」がアメリカの怒りを買い〈石油禁輸〉に…窮地に陥った日本が、アジア・太平洋戦争という「最も厳しい道」を選択せざるを得なかったワケ【世界史】&lt;br /&gt;

ヒトラーのポーランド侵攻により始まった「第2次世界大戦」。世界一の経済大国・アメリカの介入で、早々に勝敗が見えていたこの戦争の終盤に、日本は真珠湾を攻撃し、「アジア・太平洋戦争」を開戦します。状況的に「不要」だったこの戦争を、日本が始めた要因とは? 立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より見ていきましょう。

【こちらもオススメ↓】 歴史は変わっていた?…ヒトラーの独裁体制開始→ドイツの強国化を連合王国・フランスが見逃してしまった「残念すぎる事情」【世界史】

ヴェルサイユ体制の「民族自決」原則を、ヒトラーは利用した

1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。ヒトラーは、さらにドイツ人が自治権を要求しているという理由で、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を領土として要求します。さらに、「領土要求はこれが最後だ」と弁明しました。

ヒトラーは巧妙に領土を広げてきました。その背後には、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の原則である「民族自決」がありました。「なぜドイツだけが民族自決を許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。

これを受けて、同年9月、ミュンヘン会談が開かれます。仕切ったのは、大英帝国の首相チェンバレンです。チェンバレンが腰抜けだからヒトラーを助長したともいわれますが、英仏にはもともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた負い目がありました。だから、ここでドイツに民族自決を認めたら、いよいよイコールの立場になる。それでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。

実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定で、ヨーロッパに平和をもたらした」という理由で国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。

同年11月、「水晶の夜」と名付けられた、ユダヤ人の迫害が始まります。翌年(1939年)3月、ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを保護領としますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはあかん」と気づきます。

情報網から外された日本は、「複雑怪奇」で内閣総辞職

ヒトラーは1939年5月、ムッソリーニと鋼鉄同盟を結びます。ドイツとイタリアの連帯は強化されました。ヒトラーはさらに8月、独ソ不可侵条約を結びます。

日本はあっけにとられます。日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込める約束をしていましたから。国際連盟を脱退した日本には、ドイツとイタリアくらいしか仲間はいないというのに、仲間の情報すらろくに入ってきません。外交力の低下です。

ときの平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇なり」という声明を出して、総辞職しました。ヨーロッパの情勢がわからないという理由で総理の座を投げ出したというのですから、びっくりですね。

ヒトラーのパリ進軍を見て参戦する、イタリアのリアリズム

1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻します。ドイツ軍は再軍備を始めてからわずか4年ですから、十分に準備ができていません。それでもポーランドには勝てました。英仏もとうとうヒトラーに宣戦布告しました。第2次世界大戦の始まりです。

この時点で、英仏が総力を挙げていたら、ナチス・ドイツは終わっていたかもしれません。しかし、英仏もまだ本腰が入りません。

ポーランド侵攻後、ヒトラーは半年ほどかけて必死に準備をして、1940年5月、フランスを攻めます。ヒトラーは電撃戦でフランスを押し込み、パリに進軍します。それを見ていたムッソリーニのイタリアが参戦します。イタリアはなかなか賢いところがあって、いつも戦争に入るのは遅くて、出ていくのは早い。リアリズムの国です。

1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれました。

ロンドン空襲を迎撃したのは、亡命してきたポーランド人だった

ヒトラーは、フランスを降伏させました。フランス中部にドイツに協力するヴィシー政権ができます。

しかし、大英帝国に攻め入るだけの海軍を、ヒトラーは持っていません。そこで、飛行機を飛ばして、がんがん攻めます。1940年7月に始まった「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空爆です。けれど、爆撃機の航続距離が長くないので、ロンドン上空にいられるのは30分ほどでした。だから、ロンドンの人たちは頑張り続けることができました。

面白いことに、ドイツ軍の飛行機を迎撃した大英帝国の空軍のパイロットの半分はポーランド人だったそうです。ドイツに攻め入られたポーランドの人々が亡命してきて、仕返しをしたわけですね。大英帝国は、使えるものは徹底的に使います。

アメリカの武器貸与で、第2次世界大戦の帰趨は決まった

アメリカでは、フランクリン・ルーズベルトが「ナチスはけしからん」と思い、レンドリース法(武器貸与法)をつくります。要するに、武器をがんがんつくって、ドイツと戦っている国にいくらでも貸してあげる、という法律です。

この段階で、もう第2次世界大戦の帰趨は決まっていたと思います。世界一の経済大国が、連合国にいくらでも武器を供与すると決めたわけですから。

1941年6月、独ソ戦が始まります。ヒトラーは、大英帝国を空爆だけで倒すのは難しいとみて、ソ連を先に倒そうと考えたわけです。ソ連を倒せば、それで勝負はつくだろうと。

11月、アメリカはレンドリース法をソ連にも適用することに決めます。いよいよもって連合国側の勝利が確実になっていきます。ところが、外交力がなくて孤立している日本は情報不足で、それがわかりません。だからアジア・太平洋戦争に突入します。

火事場泥棒の日本は、アメリカの怒りを買ってアジア・太平洋戦争へ

フランスがヒトラーに降伏したのをいいことに、日本はフランス植民地のインドシナに進駐します。1940年に北部インドシナへ、1941年には南部インドシナへ。またもやヨーロッパの混乱に乗じた火事場泥棒です。

これに怒ったアメリカから石油を全面禁輸にされて、日本は干上がります。石油の備蓄は約2年分しかありません。備蓄は刻一刻と減っていくわけですが、「後になるほどしんどくなるから、1日でも早く戦争を仕掛けんとあかん」などという倒錯した議論になっていきます。

戦争を仕掛ける必要なんてなくて、要は、アメリカに禁輸を解いてもらえればいいわけですから、インドシナから軍を引き揚げるか、引き揚げたふりをするだけでもよさそうなものです。しかし、外交力が落ちている日本にはそれすらできず、1941年12月、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃し、アジア・太平洋戦争が始まります。

戦後のビジョンを描いて参戦したアメリカ。イタリアはいち早く降伏

1941年8月、フランクリン・ルーズベルトは大英帝国の首相チャーチルと会談して、大西洋憲章を発表しています。この時点では、アメリカはまだ参戦していませんでしたが、領土の不拡大や民族自決、国際経済協力などをうたう8ヵ条の憲章を通じて、ルーズベルトは、すでに戦後のビジョンを描いていました。

1942年1月、ナチスはヴァンゼー会議を開いて、ユダヤ人を絶滅させる方針を決めます。ここから絶滅収容所がフル稼働します。このころにはもう、戦争に勝てないことが薄々、わかっていたのでしょう。

6月には、ミッドウェイ海戦で、日本が大損害を受けます。8月には、アメリカが科学者を総動員して原子爆弾を開発するマンハッタン計画を始めます。1943年には、ソ連とドイツの間で、スターリングラードの戦いやクルスクの大戦車戦があり、ドイツの劣勢が鮮明になります。この年の7月、ムッソリーニが失脚して、イタリアは9月に降伏し、10月にはドイツに宣戦布告します。賢い判断ですね。

ドイツが勝ちそうなときに戦争にぱっと入って、ちょっとおいしい汁を吸い、負けそうになったらいち早く降伏して許してもらう。こういうところがイタリアの賢さです。

ブロック経済の反省から生まれた国際通貨基金

1944年、ルーズベルトは、ブレトン・ウッズ会議を通じて、国際通貨基金(IMF)国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決めます。世界恐慌後、各国が自国本位に展開したブロック経済が、第2次世界大戦を招いたことへの反省です。さらに、ダンバートン・オークス会議国際連合憲章の草案を話し合います。

1945年2月、アメリカのルーズベルト、大英帝国のチャーチル、ソ連のスターリンが集まり、戦後処理の方針を決めました。ヤルタ会談です。4月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、ルーズベルトが死去。トルーマンがアメリカ大統領に就任します。

同じ月(1945年4月)に、連合国50ヵ国が集まってサンフランシスコ会議が開かれ、その結果、6月に国際連合憲章が調印されています。ルーズベルトはドイツや日本が降伏する前に亡くなりましたが、その前に国連発足の道筋をつけていました。戦後の見取り図を周到に描いて、参戦に踏み切ったという意味で、傑出した政治家だと思います。

日本への原子爆弾投下は、トルーマンからスターリンへの牽制

1945年5月、ドイツが降伏し、7月にポツダム会談が開かれ、8月に日本が降伏します。

このような流れのなかで、なぜトルーマンが日本に原子爆弾を落としたのでしょうか。ルーズベルトの死後、スターリンと会ったトルーマンが、「こいつとは、とても一緒にはやっていけない」と感じたから、という説があります。ヨーロッパにおけるアメリカ軍の力は、ソ連軍に比べれば貧弱です。ソ連がその気になったらヨーロッパ全体を制覇してしまうかもしれません。その前にアメリカの軍事力を見せつけようと原爆を使用した、というわけです。

日本の敗因は、「開国」を捨てて、「富国・強兵」だけを推進したこと

第2次世界大戦が終わるまでの20世紀前半を振り返ると、日本の問題は、阿部正弘が開国のときに描いた「開国・富国・強兵」というグランドデザインを貫かなかったことだと思います。

資源のない日本は国を開いて、貿易をしなければ、豊かにはなれません。つまり、開国があって富国があり、その結果として強兵がある。これは素晴らしい国家戦略です。

ところが日露戦争で勝ってしまったばかりにのぼせて、開国を捨ててしまった。開国をせずに、富国・強兵だけを推進しようとしたのが、日本の失敗の原因だと思います。

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU) 名誉教授・学長特命補佐

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください