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「婚活」で人生を切り開いた藤原道長…後年、息子・頼通に伝えた言葉と藤原3兄弟がそれぞれの“妻”に求めたモノ

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年4月28日 10時30分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

吉高由里子さんが主演する大河ドラマ『光る君へ』(NHK)が放送中です。物語は、吉高さん演じる、のちの紫式部“まひろ”と柄本佑さん演じる藤原道長の間の特別な絆を軸に進んでいきます。道長は「強運」を揶揄されることも多いのですが、一家の末っ子である道長は本当に運だけで最高権力者の座に上り詰めたのでしょうか。本稿では、平安文学研究者の山本淳子氏による著書『道長ものがたり』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、道長が持つ「強運」の正体に迫ります。

「男は妻柄なり」

『栄花物語』は、道長の結婚が世に次のように受け止められたと記している。

二所(ふたところ)の殿ばらの御北(おんきた)(かた)たち、ことなる事なう思ひきこえたるに、この殿はいとどもの清くきららかにせさせ給へりと、殿人(とのびと)も何事につけても心ことに思ひきこえたり。

(ほか二人の御兄弟の御本妻(ごほんさい)たちについては大した家柄でもないと思っていたが、この道長殿は何だか大層すっきりとご立派に婿入りなさったものだと、実家の召使(めしつかい)たちも万事別格の認識を抱いたことだった)

(『栄花物語』巻三)

長兄・道隆の本妻は高階貴子(たかしなのきし)といい、一条天皇の父・円融天皇(959〜91)の時代に内裏で掌侍(ないしのじょう)を務めた女官、つまり女性国家公務員だった。掌侍とは百人以上にものぼる女官たちを統括する内侍司(ないしのつかさ)の管理職で、トップの尚侍(ないしのかみ)、次官の典侍(ないしのすけ)に次ぐNo.3である。天皇の傍に控え、儀式の重役をこなし、女官たちを率いて宮中の実務の中核を担った。

貴子は特に漢文に長け、『大鏡』は彼女を「まことしき文者(本物の漢詩人)」「少々の男にはまさりて(生半可な男よりは有能)」と評し、自作の漢詩文もあったとする(『大鏡』「道隆」)。彼女はいわゆる「バリバリのキャリアウーマン」だったのである。だが、当時の貴族社会の価値観においては、仕える身の女房はしょせん女房、上級貴族の箱入り娘に比べれば、品の劣る立場であることは口にするまでもなかった。

まして彼女の家は高階氏、たかだか受領(朝廷から派遣された中流貴族の地方官)階級に過ぎない。とはいえ、道隆が欲しかったのは〈高貴さ〉ではなく〈知性〉の方で、これは見事に当たり、母と同じく知性に秀でた長女の定子(ていし)はこの二年後の正暦(しょうりゃく)元(990)年、一条天皇(980〜1011)に入内(じゅだい)してその寵愛を独占することになる。

いっぽう、次兄・道兼の本妻は父・兼家の異母弟にあたる遠量(とおかず)の娘で、いとこ同士の結婚になる。ただ遠量は大蔵卿など凡庸な官職で、結局公卿にもなれなかった。

道兼は兼家の異母妹で自分の叔母にあたる繁子(はんし)を愛人とし、娘(尊子(そんし))もいた。だが、繁子が内裏の女官だったためか、道兼はこの親子に対しほとんどネグレクトの状態だったという(『栄花物語』巻三)。たとえ叔母でも女官は妻扱いしない点、彼は彼で妻の〈格〉にこだわったつもりなのかもしれない。

「結婚」ひとつで塗り替えられた道長への評価

実際、妻の格ということでいえば、『大鏡』の夕占のエピソードで触れた、道隆・道兼・道長三兄弟を産んだ母その人が受領階級出身である。兼家は、妻の血統に頼らぬ実力主義の人だった。

彼は道長らの母・藤原仲正女(なかまさのむすめ)(時姫)を正妻扱いし、道綱の母・藤原倫寧女(ともやすのむすめ)(『蜻蛉日記』の作者)を次妻扱いした。どちらの父も摂津守(せっつのかみ)陸奥守(むつのかみ)など実力派の実務官僚だが、受領国司で地位は高くない。兼家には参議・源兼忠女(かねただのむすめ)という悪くない血統の恋人もいて一女を生していたが、彼女がなぜか娘ともども行方知れずになったのに、血眼で捜すふうでもなかった(『蜻蛉日記』下巻)。

また村上天皇(926〜67)の皇女・保子内親王といった高貴な妻もいたが、やがて関係が途絶え、内親王は嘆きつつ亡くなったという(『栄花物語』巻三)。かと思えば、近江という名で伯父・実頼(さねより)に仕えていた召人(性関係付きの女房)を伯父の死後にもらい受け、生まれた綏子(すいし)春宮(とうぐう)居貞(いやさだ)親王に嫁がせた(『蜻蛉日記』中巻・『栄花物語』巻三)。

結局兼家にとっては、妻の家柄など考慮の外だったとしか思えない。つまり兼家の家において、血統のよい家に婿取りされて自分の〈格〉を上げようという考えを持ったのは、末子の道長が初めてなのだった。

なお、『栄花物語』は道長を「ご立派に婿入りなさったものだ」と見直したのが、「殿人」つまり道長の実家・兼家宅に勤める召使たちだったと言う。召使たちは平安時代の階級社会においては下層に属するが、決して無視することのできない存在だった。何しろ、圧倒的に数が多い。

平安京の人口は十数万人、うち朝廷から五位以上の位を賜っている貴族たちと言えば、家族も含めて千人かそこら(朧谷寿(おぼろやひさし)「王朝貴族と源氏物語」)に過ぎない。しかし召使たちは女房や臨時雇いも含めれば一家に数百人、平安京全体では数万人に及ぶ大集団である。

しかも横のつながりがあって、同業者同士や近隣のネットワーク内で日常的に噂を流し合っていた。そんななかで、道長を身近に知る実家の召使たちが彼を見る目を変えたならば、その情報は早晩、ほかの貴族の召使にも内裏の下層官人たちにも及ぶ。召使には女房や現代の運転手にあたる牛童(うしわらわ)など、主人の身近で働く者もいて、彼らを通じて情報は上級貴族にも及ぶ。

「兼家様の御子ではあるものの、ただの末っ子の坊ちゃんに過ぎない」というそれまでの道長像は、結婚ということ一つで塗り替えられていった。

「強運」の背景にあった道長の入念な“下準備”

道長は強運の人で、そのめぐりあわせは「棚から牡丹餅」と揶揄されることも多い。だが落ちてきた「牡丹餅」を受け止める準備ができていないと、幸運はつかめない。彼の準備の最たるものは、結婚だった。道長は十分意図してそれを行ったし、結果として結婚が自分の人生を切り拓いたことを、はっきりと自覚していた。

彼が後年、息子の頼通(よりみち)の結婚に際して「(をのこ)妻柄(めがら)なり。いとやむごとなき辺りに参りぬべきなめり(男は妻の素性次第だ。高貴な家に婿取りされるのが良かろう)」(『栄花物語』巻八)と助言したことは、よく知られている。

結婚翌年の永延二(988)年、倫子は長女の彰子(しょうし)を産んだ。結婚が前年12月であったことを考えると、ハネムーンベイビーに近い。25歳の倫子は、最速で頂点への道を歩みだした。そこには強運の助けもあろうが、彼女自身の意志が大きく働いていたに違いない。

山本 淳子

平安文学研究者

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