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『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子は〈日本で2番目の女性裁判官〉…嘉子が日本初の女性裁判官「石渡満子」に抱いた感情は?

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年6月14日 11時15分

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(※写真はイメージです/PIXTA)

4月から放送が開始された連続テレビ小説「虎に翼」。その主人公のモデルとなった「三淵嘉子」は、ついに裁判官の見習いともいえる“判事補”に任官されます。本記事では、青山誠氏による著書『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)から一部抜粋し、日本初の「女性裁判官」が誕生した経緯についてご紹介します。

「女性裁判官第一号」

最高裁判所に隣接して、嘉子が弁護士時代に所属した第二東京弁護士会があった。また、新人弁護士の頃に働いていた弁護士事務所も近い。彼女には勝手を知った場所だったのだが、終戦後はこの界隈(かいわい)の様子も大きく変わっていた。

司法省の裏手にある日比谷(ひびや)公園を囲む真鍮(しんちゅう)製の外柵(がいさく)は、戦時下の金属供出ですっかり取り払われていた。園内の花壇も食料増産のための芋畑に。

園の中央にあった池は節水で涸(か)れ果て、東京名所の絵葉書に描かれた「鶴の噴水」は撤去されたまま。また、園内の料理屋「松本楼(まつもとろう)」は進駐軍に接収されて兵士の宿舎になっていた。

司法省庁舎から堀沿いに歩いてすぐの場所には、連合国総司令部が置かれた第一生命館がある。そのため付近では米兵の姿がよく見かけられた。

銀座に足を向けると、空襲で焼け残った服部(はっとり)時計店や東京宝塚劇場などは進駐軍に接収されて米兵の福利厚生施設になり、道路を行き交うのも米軍のジープだらけ。

銀座通りは「GINZA AVE」などと、道路標識は米兵たちが覚えやすいようにすべて英語名に変更されていた。

わずか数年見ない間に、街の眺めは一変していた。知らない場所に迷い込んだようで、啞然(あぜん)としてしまう。

しかし、世の変貌(へんぼう)に驚いてばかりもいられない。毎日忙しかった。連合国総司令部からは、諸法の改正を求めて矢の催促がある。なかでも占領軍が重視し注目したのが民法の改正。日本に民主主義を根付かせるためにはまず、封建的・全体主義的な昔の慣習を排除せねばならないと彼らは考えている。その最大の障害になるのが、戸主に絶対的な権限を与えて家族を支配させた旧民法下の家制度だった。

嘉子の机のまわりでは、いつも大勢の人々が書類の束を抱えて足早に行き交っていた。司法省の中でもとくに騒々しく忙しい部署だったが、ここから日本の民主化が始まる。そう思えばやり甲斐(がい)もうまれてくる。

そして、昭和22年(1947)12月22日には、日本国憲法に基づいて改正された民法が完成する。戦前の民法にあった妻の行為能力を否定した条文については、完全に削除される。

戸主が絶大な権限を持って妻や子どもたちを支配する、昔ながらの「家」の形にこだわる人々がこの頃はまだ国民の大多数を占めていた。そんな人々の感情に配慮し、政界などの抵抗勢力とも妥協を図りながらの難産だった。

この仕事に携わることができたことで、嘉子は心地よい達成感を味わっていた。しかし、新しい民法の下で女性の地位が急速に向上したことには躊躇(ちゅうちょ)も覚える。

三淵嘉子が女性の地位向上に「躊躇」を覚えるワケ

権利を有する者には、それに相応した自覚と責任が求められる。突然に大金を得て金持ちになった者は、金の使い方がわからず散財し〝にわか成金〞などと蔑(さげす)まれる。

敗戦のショックで茫然(ぼうぜん)自失となっている間に、日本は民主主義の国になっていた。知らぬ間に、自由が降ってわいた……当時、大多数の女性たちは、そんな感じではなかったか? いきなり与えられたものをどう使ったらいいのか分からない。

「はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」

彼女は当時の心境を、このように語っている。

最高裁判所でも発揮された三淵嘉子の才能

民法改正事業がひと段落した昭和23年(1948)1月、嘉子は司法省民事部から最高裁判所事務局に異動している。

前年の5月3日に日本国憲法が施行されると同時に最高裁判所が発足。司法省の隣にあった旧大審院の建物が、そのまま最高裁判所として使われることになった。嘉子は裁判所事務局内に設けられた家庭局に配属され、民事訴訟など家庭裁判所関係の法律問題や司法行政の事務を担当した。あいかわらず男性が圧倒的に多い職場だったが、

「女性であるために不快な思いをしたことは、一度もありませんでした」

と言う。むしろ年配の男性職員や裁判官たちにはかわいがられ、色々と気を遣ってもらえる。高学歴のインテリたちが集まる職場だけに、いち早く新時代にあわせた職場内の意識改革がなされたのだろうか。

あるいは、嘉子のキャラクターがそうさせたのかもしれない。見知らぬ相手でも物怖(ものお)じせず、ぐいぐいと距離を詰めてくる積極性はあいかわらず。女学生のように天真爛漫(らんまん)で憎めない。ふくよかな丸顔には笑顔がよく似合い、誰からも好感を抱かれる。

だから先輩の裁判官たちも親身になって色々と教えようとする。教えられ上手。それも彼女がもつひとつの才能だろう。

最高裁判所で仕事をするうちに、嘉子は裁判官に必要なスキルをどんどんと身につけてゆく。それが認められて、昭和24年(1949)8月には東京地方裁判所民事部の判事補に任官された。

日本初の「女性裁判官」誕生に三淵嘉子が抱いた感情

判事補という職位は裁判官の〝見習い〞といったところ。地方裁判所や家庭裁判所に配属されるが、原則として判事補が単独で裁判をすることはできない。

裁判長に陪席して裁判に加わり、そこで10年程度の経験を積まされる。その後に判事に昇進し、一人前の裁判官として認められるのだ。

通常は司法修習を受けて判事補に任官される。戦後の司法修習制度は、戦前よりも期間が短縮されて1年程度となっていた。しかし、嘉子が司法省や最高裁判所で働きながら学び、判事補に任命されるまでには、おおよそ2年間を要している。

これなら司法修習を受けたほうが近道だったはずだが。司法修習が始まったのは、彼女が司法省に採用願を提出してから2ヵ月後のことだった。思い立ったのが少し早過ぎたようである。採用願の提出があと少し遅ければ、司法修習制度も始まっていたから、そちらで学ぶことになっていたかもしれない。

戦後第一期の司法修習生134名のなかには、石渡満子(いしわたりみつこ)と門上千恵子(かどがみちえこ)という2人の女性がいる。門上は嘉子と同い年で、九州帝国大学法文学部卒業後、母校の研究室に助手として勤務しながら法律の勉強をつづけた。

戦時中の昭和18年(1943)司法科試験に合格。戦後になって女性も裁判官や検事になれる道が開かれたことを知り、司法修習を受けることにしたという。修習終了後は東京地方検察庁に入って、日本における最初の女性検事となっている。

石渡のほうは嘉子よりも9歳年上で、東京女子高等師範学校を卒業した先輩でもある。また、昭和19年(1944)に明治大学法学部を卒業しているから、大学では後輩になるというややこしい関係だ。石渡は高等師範学校を卒業後すぐ、婿養子を迎えて結婚したが、8年後には離婚している。その後に明治大学へ入学して法律を学ぶようになった。戦前のことだけに離婚に際しては色々と理不尽な目にもあったようで、それが法律家をめざす動機になったのかもしれない。

石渡は裁判官を志望し、司法修習を終えた昭和24年(1949)5月17日にその証書を受け取った。この瞬間に日本初の女性裁判官が誕生した。

嘉子が判事補に任官されたのはその3ヵ月後だから、日本で2番目の女性裁判官ということになる……。弁護士の時とは違って、裁判官で日本初にはなれなかった。それに関して彼女は何を思ったか?

「昭和二四年四月に、司法研修所で司法修習生としてはじめて男性と共に修習された石渡満子、門上千恵子両氏が判事補と検事に任官された。いずれも女性として最初の任官者である。これからが男女対等の女性法曹時代のはじまりというべきである」

著書『女性法律家』でこのように語っている。先を越された悔しさよりもむしろ、自分のほかにも〝女性初〞に挑み成功した者が現れたことを喜んでいる。仲間の存在を心強く感じていたようだ。

青山 誠

作家

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