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捜査網をかいくぐり逃げ続けること50年…特別指名手配犯の意外な最後に「それは勝利といえるのか?」【事件に詳しい元新聞記者が解説】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年6月3日 15時0分

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指名手配犯というと、ニュースで取り上げられるなどして大々的な捜査が行われるイメージですが、実際には街中にポスターが貼られたりすることもない「知られざる指名手配犯」が大半だといいます。そんな指名手配犯を専門にした捜査員も存在しますが、彼らが捕まえることができずに、意外な形で最後を迎えた特別指名手配犯がいます。本記事では、『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』(東洋経済新報社)より、著者の三枝玄太郎氏が指名手配犯にまつわる話をご紹介します。

指名手配犯の捜査、「福田和子事件」が報奨金導入の後押しに

テレビのニュース速報で「警察は〇〇容疑者を全国に指名手配した」とテロップが流れることも少なくありません。その人物が犯行を起こしたのは、ほぼ間違いないものの、すでに行方をくらませてしまった場合に指名手配がなされます。

警察庁Webによれば、指名手配されている犯罪者は2023年8月末時点で約540人に上ります。指名手配されると、強盗や殺人などの容疑者は、各都道府県警の末端の交番の警察官にまで顔写真と名前、犯罪の種類など必要な情報が行き渡ります。組織的殺人やテロといったさらなる重大犯罪になると、「特別指名手配」される制度もあります。

1995年に発生した地下鉄サリン事件の容疑者らが特別指名手配されたケースは記憶に新しいですが、昭和40年代に世情を騒がせた連合赤軍事件では53人にも及ぶ容疑者が特別指名手配され、49人が逮捕されています。

こうした指名手配と特別指名手配のうち、警察が報道機関を通じて「指名手配した」などと広報するケースが「公開指名手配」です。写真付きのポスターが大量に作成され、広く情報公開を求めます。ただそれはほんの一部で、多くはポスターも何も作成されていない〝知られざる〞指名手配犯です。

2007年からは捜査特別報奨金制度も始まりました。警察庁が指定した容疑者の逮捕につながる情報を提供した市民に、上限額300万円の範囲で、国から報奨金を支払うものです。「特別に必要がある場合」は1,000万円まで増額できます。期限は1年ですが、ほとんどの場合は、逮捕されるまで延長または短縮しているようです。

この制度がまだなかった1982年に、愛媛県松山市で発生したホステス殺人事件、いわゆる福田和子事件が起きました。整形して逃亡を続けていた福田容疑者はもう少しで時効というときに、居酒屋店主らの通報をきっかけに逮捕されました。

このとき、被害者の遺族らが報奨金を支払うと呼びかけていたことが、その後の報奨金制度導入を後押ししたといわれています。

指名手配犯を逮捕することが一番多いのは警察官

福田和子事件は一般人の通報が逮捕につながった、いわば指名手配の〝効果〞がいかんなく発揮された例ですが、指名手配容疑者を逮捕することが一番多いのは、実は警察官です。

2017年の話ですが、警察庁による指名手配容疑者の捜査強化月間期間中、何と410人の指名手配犯を逮捕したことがあります。そのうち251人は立ち回り先の捜査による逮捕でした。立ち回り先とは、容疑者が手配されたあとに立ち寄りそうな、実家や友人、知人の家などのことです。

ほかにも見逃せないのが、職務質問で発見したケースが39人、雑踏などで発見したケースが36人いたことです。

警視庁や大阪府警などの都市部を管轄する大規模な警察には、人の顔を覚えるのを得意とし、指名手配犯の逮捕を専門にする手練の捜査員がいるそうです。

警視庁は捜査共助課、大阪府警では捜査共助課見当り捜査班、愛知県警は刑事特別捜査隊、福岡県警は刑事総務課にそうした捜査員が配置されています。

大阪府警では2017年、見当り捜査班の班長に全国で初めて女性が任命されました。大阪府警は見当り捜査の専門家を育成した全国初の警察です。現在では北海道など全国10の都道府県に専門部署があります。

彼ら彼女らは通称「的割りさん」とも呼ばれます。ある的割りさんがテレビ番組で取り上げられているのを見たことがありますが、犯罪者の顔写真が貼られた手帳をつねに持参していました。指名手配犯が一番出くわしたくない人でしょう。

「的割りさん」でも見抜けず50年逃げ切った桐島容疑者

2024年1月26日、驚愕すべきニュースが報じられました。1974年から1975年にかけて起きた連続企業爆破事件で特別指名手配されていた過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡(70)と名乗る男が神奈川県警に名乗り出たのです。

桐島容疑者は末期の胃がんを患っており、神奈川県の病院に入院していました。桐島容疑者は「内田洋」と名乗り、神奈川県藤沢市で住み込みの建設作業員をしていたのです。藤沢の街にも溶け込み、音楽好きで人付き合いのいいおじさんとして知られていました。

50年近くの長期間、特に人を避けるでもなく、近くの銭湯でも顔なじみだったそうです。TBSが特報した桐島容疑者の近影を見ても、手配写真とは似ても似つかない人物に変貌していました。

東アジア反日武装戦線は「腹腹時計」という爆弾製造マニュアルを作成して、メンバーに配布していました。

その中では、「あらゆる面で肥大化した都市機能、雑踏を最大限に活用し、隠れ蓑としなくてはならない」と説き、「極端な秘密主義や閉鎖主義で生活すると、むしろ墓穴を掘る結果となるので、表面上はごく普通の生活をする人に徹する。近所付き合いは浅く、狭く。隣人の挨拶は不可欠」と書かれているそうです。

警視庁公安部が男のDNA鑑定をした結果、桐島容疑者だと断定されました。彼は1975年に東京・銀座で発生した韓国産業経済研究所爆破事件などに関与したとして、指名手配されていました。

同様の事件で指名手配されており、桐島容疑者と同じ明治学院大に通っていた東アジア反日武装戦線のメンバーUは7年逃走しましたが、東京都内の新聞販売店で働いていたところを警視庁に逮捕され、懲役18年の刑を受けました。Uは今でも冤罪事件の救援活動をしているといいます。

50年逃げ切った桐島容疑者。的割りさんでも見抜けなかった特別指名手配犯だったわけです。

「事件を後悔している」と警視庁の捜査員に語ったという桐島容疑者ですが、健康保険にも加入できず、末期になるまで手当てもできず、結婚もあきらめ……そんな人生を思うと、死の直前まで逃げ切ったことが〝勝利〞といえるのかはなはだ疑問です。服役を終えていれば、少なくとも数十年は自由な時間があったはずです。  

三枝 玄太郎

※本記事は『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』(東洋経済新報社)の一部を抜粋し、THE GOLD ONLINE編集部が本文を一部改変しております。

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