文豪・夏目漱石が「子どもが読むものではない」と、小学生読者にレスをした『坊っちゃん』『吾輩は猫である』ではない名作とは【明治大学文学部教授・齋藤孝が解説】
THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年7月24日 8時0分
(※写真はイメージです/PIXTA)
昨今はSNSの普及により「他人との適当な距離の取り方がわからない」という人が増えているようです。人間関係をうまく構築しようと意識するあまり、ストレスが大きくなることも。本記事では明治大学文学部教授の齋藤孝氏が、心地よい人間関係を構築するコツを解説します。
今は亡き、世紀の一流の人びとと語り合う方法
心が傷つきやすい人、人との間合いが取れない人は、同じ悩みを抱える主人公の話読んでみましょう。同じような悩みを持っている人の話を読むと、自分の状態を客観視できるようになりますし、自分よりもっとひどい人がいることを知るだけで、精神的に楽になることがあります。
本を通じて偉大な作家と対話することには 、じんわりとした温かさが感じられます。私はこれを、 「読書の遠赤外線効果」と呼んでいます。目に見えない遠赤外線によって、体の芯までじっくり温まる感覚です。
いつまでたっても冷えにくいのです。「死んだあとも魂が残る」こと、 「魂がつながり合う」ことの実感ができる、大切な機会です。読書の良さは、 「内なる他者との会話が起きる」ことにあります。
古くから読み継がれている文豪の文章は、読者にずしりと重いテーマを投げかけて魂を揺さぶります。そうして、自分の中で対話が起こるのです。
たとえばドストエフスキーの『罪と罰』。殺人を犯した主人公のラスコーリニコフに、読者は反発と同時に自分がその立場になったらと想像するでしょう。
ドストエフスキーの思考の深度が、読む側に入ってくるのです。読書は思考を深く掘り下げ、新たな地下水脈を見つける試みで、古今東西の教養人とつながる知の水脈です。
哲学者デカルトは、読書の効用について、著書の『方法序説 』(谷川 多佳子訳、岩波文庫)の中で、「歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる」と述べ、
さらに、「すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ」と述べています。過去の一流の人々と対話することは、精神を奮い立たせ、判断力を養う助けにもなります。
身近にお手本となる人や同じ悩みをもつ人がいなくても読書が助けに
デカルトは、「手に入ったものは、すべて読破した」といい、実際に「もっとも秘伝的で稀有とされている学問」と言われる占星術や錬金術、手相術、光学的魔術に至るまで、入手できた書物は全部読んだということです。
身の回りにお手本になる大人がいないと、ガッカリする必要はありません。本を開けば、必ずや過去の一流の人たちと出会うことができるのです。
古典を自分の中に取り入れることは、一種の遠い星、北極星のような確たる存在を得ることです。遠くにあるものを目印にし、自分の相対的な位置を測ることができます。
遠くで同じ位置にそびえる大きな存在は、人生を歩んでいく上でよい目標物になります。それを手がかりにすると、今の自分がどこにいて、どこへ歩いて行こうとしているのかが見えやすくなります。
夏目漱石の作品『こころ 』の登場人物・先生の吐露
家族も世代も超えた深い心の交流を描き、ひと際強く印象に残る名作が、江戸から大正期に生きた作家、夏目漱石の作品『こころ 』(新潮文庫)です。
皆さんも学校の教科書で読まれたのではないでしょうか。この小説に登場する先生は、陰のある人間です。「私」という学生は、鎌倉の浜で、隠遁同様の生活をしている先生に出会います。
この人はなぜ社会で有用な働き方をしていないのだろうと訝しがりますが、先生は世に出て活躍することを自分自身で制限しており、「私は淋しい人間です」と自ら言うのです。
「ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打(ぶ)つかりたいのでしょう」この先生の言葉には、社会から外れた人間特有の暗さがあります。
さらに先生は、若いうち程淋しいものはないが、自分には「その淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がない」と付け加えます。
歳を取ると人は運動性が低くなり、感情によって行動することは比較的減るものですが、若いうちは淋しいと動き回るというのです。「私」は、過去を背負った先生に、絡んでいきます。
夏目漱石が『こころ』を読んだ小学生に「子どもが読むものではない」と返したワケ
先生には、奥さんにも言えない秘密がありました。何を隠しているのかと問う「私」に向かって、先生は「あなたは本当に真面目なんですか」と問いかけます。先生は、自分の血を浴びる覚悟はあるのか、と「私」に対して問いかけます。
感性と頭の良さを持つ青年と出会い、自分のいなくなった後にも愛する妻を任せられる人だと確信をした先生は、さらにこんな言葉を繰り出します。
「死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか」という、とてつもない重量の言葉が交わされるのです。他人の秘密を打ち明けられた時に受け止められますか、と先生は直球で「私」に問いかけています。
この小説を読んだ小学生が葉書を送ったところ、夏目漱石は「子どもが読むようなものではありません」と返信を書いたという程、本作は人間の真理に迫る小説なのです。
先生は、信頼している親戚に欺かれ、人間不信に陥っていました。人間一般を憎むようになっていたのです。先生は心に壁を作りますが、これは理由がある壁です。先生も、誰かたった一人には聞いてもらいたい気持ちを抱いています。
『こころ』に学ぶ「心に壁がある人」とのコミュニケーション術
この登場人物たちは、時代特有の真面目さを持っていますので、この密度の距離感は現代人にはリアルではないかもしれませんが、壁を作ってしまった人との間の、回路の開き方の参考になります。
この人になら本当のことを言えると、先生は「私」に回路を開くのです。自分の持っている何かを伝えたいという思いが、世代を超えた出会いを可能にしました。
「人生そのものから生きた教訓を得たい」という「私」に対し、先生は手紙を書き始めます。「世間と交渉のない孤独な人間」が、「義務という程の義務 」はない生活の中で、この手紙を書くことが義務となり、先生は生涯の秘密を「私」に打ち明け、すべてを腹の中に留めてくれと言い残します。真面目な他人同士が出会った時の、深掘り度合いと距離の縮め方が凄まじい密度で描かれた日本文学の名作です。
齋藤 孝
明治大学文学部教授
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