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かつての“買い物”は物々交換だったが…「お金ってヤツを使ったら、めっちゃ便利じゃない?」⇒国内で貨幣制度を猛プッシュした〈天才日本人〉の正体【偉人研究家が解説】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年7月27日 11時0分

かつての“買い物”は物々交換だったが…「お金ってヤツを使ったら、めっちゃ便利じゃない?」⇒国内で貨幣制度を猛プッシュした〈天才日本人〉の正体【偉人研究家が解説】

(※写真はイメージです/PIXTA)

歴史上の人物のなかには、皆が認める偉業を成し遂げたヒーローたちがいる一方で、世間で評判の悪い「嫌われ者」たちが存在しています。嫌われる理由は様々ですが、なかにはひどい誤解を受けていたり、功績もあるのに悪いところばかりが強調されていたりする人々も…。偉人研究家・真山知幸氏の著書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、今回は「平清盛」について見ていきましょう。

平清盛って「政治を自分の思いのままにした暴君」じゃないの?

◆これまでの平清盛(1118~1181)といえば…

「平家にあらずんば人にあらず(平家の人間でなければ人並みではない)」のフレーズどおりに、平清盛は武士として初めて太政大臣に任じられて、平家一門の栄華を築いた。だが、『平家物語』を読むと、清盛は取り立ててくれた後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉したり、都を平安京から福原(ふくはら)に移したりと、やりたい放題。

15歳くらいの少年を300人ほど召し抱えては、「禿(かむろ)」というスパイとして市中に放ち、平家の悪口を言う者がいれば、捕まえて家財までうばったという。暴君以外の何者でもない、おそろしい人物だった。

実は「改革力に優れた部下思いのリーダー」だった

◆「お金でやりとりすれば便利!」と気づく

今、抱えている問題点をしっかりと把握したうえで、さまざまな改革を行い、社会をよりよい方向に動かしていく――。それが国のリーダーにとって、最も大切な仕事である。そういう意味では、武士として初めて政権をにぎった平清盛は、実はアイデアマンでとても優秀な日本のリーダーだったといえる。

清盛は「太政大臣」という最高の官職につくと、こんなことを考えた。

「物の売り買いをするときに、お金でやりとりしたら、めちゃくちゃ便利じゃない?」

何を当たり前のことを…と、現代の私たちなら思うところだが、当時は物の売り買いにはお米や絹の織物などを使っていた。当然、持ち運びはしにくいし、いちいち量を計らなければならないので不便でしょうがない。その場でのやりとりも、なかなかスムーズに進めることができなかった。

そこで清盛は、宋(中国)のお金である「宋銭(そうせん)」に目をつけた。宋銭はすでに日本に輸入されてはいたものの、原料の銅を経典の筒に使うなど、お金として使用する動きはまだ限られていた。

この問題を解決すべく、清盛はさっそくダイタンな改革を行う。まずは、今の神戸港にあたる場所に大輪田泊(おおわだのとまり)という港を整備。日本から金・銀・硫黄などを宋に輸出する代わりに、多くの宋銭を大量に輸入した。そして、輸入した宋銭を、取引するときの「お金」として日本国内で流通させたのだ。

このように清盛は、日本と宋との貿易を活性化させながら、本格的な貨幣経済を日本で初めて実現させている。また、その後、神戸が国際的な貿易港として発展を遂げていくのも、清盛がそのきっかけを作ったといえよう。

しかしこれは、日常の取引のあり方を変える大改革だった。そのスケールが大きすぎるがゆえに、多くの人には、アイデアマン・清盛がやろうとしていたことの意味がよく理解できなかった。これが、「清盛は自分のやりたい放題に政治を動かした」というイメージにつながっているのだろう。

◆ズルをせず、まじめに仕事して出世した

また、清盛は武士にもかかわらず、貴族社会ですさまじいスピードで出世したことで知られている。子どものスパイを使ったというくらいだから、ズルいことや武力にものを言わせて強引にのし上がった…そんな印象もあるが、これも言いすぎている。

清盛の父・平忠盛(たいらのただもり)は、武士として初めて殿上人(てんじょうびと。有力貴族の一員)になるほど能力が認められていたが、清盛自身は30歳をすぎてもごく普通の昇進スピードだった。

清盛が大きく躍進したのは、1156年に起きた「保元の乱(ほうげんのらん)」で、後白河天皇(ごしらかわてんのう。のちの後白河上皇・法皇)に味方して、崇徳上皇(すとくじょうこう)との争いに勝利してからのことである。さらに、1159年の「平治の乱(へいじのらん)」では、同じ武士で二条天皇(にじょうてんのう)へのクーデターにかかわった源義朝(みなもとのよしとも)との対決にも勝利。その功績から清盛は正三位・参議(しょうさんみ・さんぎ)に昇進し、43歳にして公卿(くぎょう。上級貴族)の仲間入りを果たした。急速に出世したのはその後からで、50歳で太政大臣にまで上りつめる。

実は、清盛は強大な軍事力を持ちながらも、自身から合戦をしかけたことは数少ない。そして参加した合戦では、いずれも勝利するという勝負強さを見せている。

つまり、清盛は何もズルい手や自分のためだけに戦を利用して、出世したわけではなかった。天皇から参戦を求められた戦に勝利することで功績が認められるという、ごくまっとうな方法でのし上がっていったのである。

◆お寝坊さんな家臣をそのまま寝かしてあげた

これだけリーダーとして優秀でありながら、何かと誤解されやすい清盛。これは、彼を多く取り上げている『平家物語』が「諸行無常(しょぎょうむじょう。どれだけ栄えても最後はなくなる)」をテーマにしているだけあって、栄えた清盛をことさら悪く書いた部分もあるようだ。

一方、鎌倉時代中期の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』では、清盛についてこんなふうに書かれている。

「空気の読めない発言があっても《冗談で言ったのだろう》としかることはなかった。たいしておもろしくもないときでも笑い、相手がどんな間違ったことをしても《どうしようもないやつだ!》と声を荒げることもなかった」

ずいぶんと理解のある人柄だが、それだけではない。冬の寒いときは、近くに仕える侍たちを自分の着物の近くに寝かせてやる、という思いやりも見せている。

それどころか、朝早くに彼らがまだ寝ていたら、起こさないようにそっと抜け出して、ゆっくり寝かせてあげたとか…。暴君どころか、むしろ「甘すぎるのでは!?」と心配になるくらいだ。

これらの逸話から、『十訓抄』ではこうつづっている。

「人の心を感激させるのは、こういうことである」

そんな清盛の気づかいは、政治の場でも同じだった。後白河上皇と二条天皇が対立したときも、貴族たちが両派閥に分かれるなかで、清盛はどちらの味方もしないことでバランスをとっている。

「平家にあらずんば人にあらず」

そんな暴言を吐いた人物とは思えない、あまりに意外な素顔だが、そもそもこの言葉は清盛ではなく、義弟にあたる平時忠(たいらのときただ)が言ったもの。キャッチーなフレーズゆえに、平家のトップでひときわ目立つ、「清盛の言葉に違いない」とカン違いされやすいようだ。

アイデアマンで器が大きく、実行力とバランス力に優れた、他人思いで頼りがいあるリーダー。それが平清盛の実像である。

真山 知幸  伝記作家、偉人研究家、名言収集家 

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言を研究するほか、名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。『10分で世界が広がる15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』など著作は60冊以上。

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