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「『学問の神様』菅原道真をデマで左遷させた極悪人」と思いきや…藤原時平、意外とゆかいな性格だった【偉人研究家が解説】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年8月16日 12時0分

「『学問の神様』菅原道真をデマで左遷させた極悪人」と思いきや…藤原時平、意外とゆかいな性格だった【偉人研究家が解説】

伝統芸能でも極悪人として描かれることの多い藤原時平。石見神楽(いわみかぐら)の演目「天神」では、死後に天神となった菅原道真が時平を成敗する(※写真/PIXTA)

歴史上の人物のなかには、皆が認める偉業を成し遂げたヒーローたちがいる一方で、悪名高い「嫌われ偉人」たちも存在しています。嫌われる理由は様々ですが、なかにはひどい誤解を受けていたり、功績もあるのに悪い側面ばかりが強調されていたりするケースも。実は藤原時平もその一人です。「『学問の神様』と名高い菅原道真を、デマで追い落とした陰湿男」と思われていますが、実際は…? 偉人研究家・真山知幸氏の著書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、見ていきましょう。

藤原時平って「優秀なライバル・菅原道真をハメた極悪人」じゃないの?

◆これまでの藤原時平(871~909)といえば…

「学問の神様」として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)。受験シーズンになると、道真をまつる太宰府天満宮には、合格を祈願する多くの学生が今でも訪れている。そんな道真を、陰謀によって政界から追放したとされるのが、藤原時平だ。時平が「道真は謀反をたくらんでいる」というデマを広めたことで、道真は太宰府へと左遷(させん)されてしまう。天皇に目をかけられ、どんどん出世する道真への嫉妬から、そんなヒドイことをしたらしい。道真は京の都に帰ることもできず、絶望のなかで死をむかえることとなった。彼の死後に関係者の相次ぐ死や落雷による大火事が起きたことで、道真は「日本三大怨霊」の一人として数えられることに。その原因を作ったのが時平である。

実は「道真とともに天皇を補佐した改革者」だった

◆キレ者でありながら、他人のオナラでツボる陽気な一面も

優秀な菅原道真に嫉妬して、道真が左遷されるように陥れたひどいやつ─―。藤原時平については、もはやこのイメ―ジしかないといっても、言いすぎではないだろう。誰もが人生で一度くらいは出会うことになる「他人の足をひっぱるタイプ」だ。

こういうタイプの人間にはかかわらないのが一番だが、時平の素顔を見てみると、ちょっとイメージは違ってくる。

時平は左大臣(大臣のトップ)として醍醐天皇(だいごてんのう)を支えたが、二人はよいコンビだった。

あるとき、醍醐天皇が「貴族たちには、もう少し倹約をしてもらわないと…」となやんで、時平と話し合ったところ、「これだ!」というアイデアがうかんだ。その数日後、時平が豪華な服装で醍醐天皇の前に現れた。

周囲はおどろいたことだろう。醍醐天皇が日ごろから、貴族に「ぜいたくはしないように」とクギを刺していたからだ。

案の定、醍醐天皇は時平の服装を見て「なんだ、その姿は!」と激怒。周りの貴族たちが心配していたよりも、はるかに激しい叱り方だった。これには時平もしょんぼり。屋敷にこもって、しばらく仕事に出なくなってしまった。そんな様子を見た貴族たちは、改めて倹約にはげみ、質素な生活を心がけたという。

そう、これこそが醍醐天皇と時平が考えた作戦だった。時平がわざと怒られるような状況を作り、それを見せつけることで貴族たちの気持ちを引きしめたのである。二人で芝居をしていたのだから、醍醐天皇も時平もなかなかの役者だ。

そんなふうに頭が切れる反面、時平は「笑い上戸」でもあった。『大鏡(おおかがみ)』という文献によると、書記官が「ぷー」とオナラをしたのを聞いて、時平は笑いが止まらなかったとか。

人を陥れる陰湿な男かと思いきや、意外とゆかいな性格だった時平。はたして、本当に道真を追い落としたのだろうか。

◆あまり知られていないが、ライバル・道真が台頭したのは「時平パパ」のせい

醍醐天皇のもとで左大臣を務めた時平に対し、右大臣(大臣のナンバー2)を務めたのが菅原道真である。この関係性こそが「時平が道真をライバル視した」とされる理由だが、ライバルの道真が右大臣にまで出世した背景には、時平の父の暴走があったことはあまり知られていない。

時平の父・藤原基経(ふじわらのもとつね)は、すさまじい権力者だった。清和天皇(せいわてんのう)、陽成天皇(ようぜいてんのう)の2代にわたって、摂政(幼少の天皇の代わりに政治を行う者)を務めているほどだ。

さらに、陽成天皇が退位したあとは従兄弟を光孝天皇(こうこうてんのう)として即位させ、実質的に関白(天皇の補佐役)となって政務を独占している。次の宇多天皇(うだてんのう)もまた「政治は基経にすべて一任!」としている。

ただ、基経はちょっとやりすぎてしまった。宇多天皇が、基経を関白に任じる詔書(しょうしょ。天皇の正式な命令書)を下したときのことだ。そのなかに「阿衡(あこう)」という言葉があったことに、基経は激怒する。

「中国では『阿衡』は実権がない官職のこと。私を政治から遠ざけるおつもりですか!」 

宇多天皇は「いやいや、そんなつもりはない」と弁明するも、基経はへそを曲げて出仕しなくなってしまった。「阿衡事件」と呼ばれるこの騒動は、実に1年にもわたって続いたという。どうも基経は、本当に怒っているというよりも、いちゃもんをつけて、自分の影響力をさらに高めようとしていたようだ。

困った宇多天皇は、詔書を書いた担当者を解任。さらに基経の娘の温子(よしこ)が、宇多天皇の女御(にょうご。后の一人)として入内(じゅだい。天皇に嫁入り)することで、ようやく問題は解決した。だが、宇多天皇はこう考えるようになった。

「藤原氏の権力が強すぎるな。対抗できる人間を育てなければ…」 

そこで宇多天皇が目をつけたのが、菅原道真だった。当時、道真は讃岐(さぬき)国司の長官だったが、「阿衡事件」において、冷静な意見書で基経をいさめたことで、天皇からの信用を勝ち取った。基経の死後、中央に返り咲いた道真は順調に出世する。宇多天皇が退位すると、醍醐天皇のもとで、右大臣を務めることとなった。

つまり、父・基経がやりすぎたために、道真は時平のライバルとして立ちはだかることになったのだ。時平からすれば「父ちゃん、勘弁してよ」と言いたくなったかも?

◆政治は真面目に取り組んでいた時平。では、道真を太宰府送りにした「例のデマ」は…?

通説では、時平は次のようなデマを流して、道真を追い落としたといわれている。

「道真が娘婿を皇太弟(こうたいてい。皇位を継ぐべき天皇の弟)にしようと企んでいる」

もっとも、時平がどれだけ道真のことをうとましく思っていたかはわからない。むしろ両者は詩文や贈り物を何度もやり取りするなど、もともと険悪な仲ではなかった。また、道真の異例の出世には時平のみならず、貴族の誰もが嫉妬していておかしくない状態だった。

さらにいえば、道真はイメージほどクールなタイプではなかった。蔵人頭(くろうどのとう。天皇の筆頭秘書官)に出世した弟子のほおを平手打ちした、という意外な逸話もある。もしかしたら同じようなふるまいをして、他人からうらみを買っていた可能性も高い。

そして、実のところ、道真が「娘婿を皇太弟にしようと企んでいる」というのはデマではなく、実際にそんな企てがあったとする研究者もいる。本書『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』では「嫌われ者」を再評価しているが、道真のようにやたらとイメージがよい歴史人物の人間くさい一面も、今後はもっといろいろ明らかになってくるかもしれない。

道真が失脚すると、時平は6歳以上の男女に田を与える制度を推し進めたり(班田制〔はんでんせい〕)、違法な土地所有を廃止したり(延喜の荘園整理令〔えんぎのしょうえんせいりれい〕)するなど政治改革に次々と着手。

39歳の若さで亡くなるまで政治手腕を発揮し続けており、決して道真に劣る人物ではなかった。

真山 知幸  伝記作家、偉人研究家、名言収集家 

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言を研究するほか、名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。『10分で世界が広がる15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』など著作は60冊以上。

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