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学校の「テスト」は百害あって一利なし【慶應義塾大学名誉教授が解説】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年9月30日 15時0分

学校の「テスト」は百害あって一利なし【慶應義塾大学名誉教授が解説】

(※写真はイメージです/PIXTA)

学校教育はいまやその内容が複雑化して、生徒にとっては「学ぶこと」よりも「いい成績をとること」がその目的となってしまうきらいがあります。本記事では、日本における双生児法による研究の第一人者である安藤寿康氏の著書『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新聞出版)より一部抜粋し、そもそもなぜ「学校」という場所が必要になったのか、その経緯を通して学校教育の本質に迫ります。

進化的に見た教育

現代社会では、狩猟採集社会の子どもでもない限り、必ず国の定めた学校で、子ども時代のかなり長い時間を過ごさねばなりません。それは親が果たすべき国民の義務となっているからです。ここで学校とは何かという問題について、歴史的、理論的に、やや小難しく考えてみたいと思います。

そもそも学校らしきもの、つまり多くの子どもを一つの場所に集めて、家で親がしつけや子育てをするのとは異なる特別なことをまとまって教えようとし始めたのは、産業革命を迎えた18世紀のヨーロッパにおいてと考えられています。いわゆる「近代」になってからですね。

それまでのほとんどの子どもは、親の身分や仕事を継ぐまでは、「子どもらしく」遊んだり、ときどきは親のそばで仕事のまねごとをしながら手伝いをして、少しずつ社会のことや人間関係のルールなどを学んでいました。

ところが近代になると、西洋でも日本でも大都市に人が集中するようになり、仕事も分化し専門化して、多くの子どもがある程度、組織的に知識を身につけねばならなくなりました。読み書きそろばんのような基礎知識や、階層ごとの文化的教養です。

子どもの数も増え、親は仕事で忙しくなり、子育てを外注しなければならなくなりました。そうしてできたのが、幼児教育の祖と言われるフレーベルやペスタロッチの学校、あるいは日本では寺子屋のようなところだったわけです。

学校はただ親の子育ての肩代わりをしてくれるだけのところではありませんでした。そこでは親が教えてあげられないようなことを教え身につけさせてくれたり、家庭だけでは経験させてもらえないようなことをさせてもらえたりしました。知恵と知識がつまった童話や絵本、昔の人のことばを集めたもの、この世界にあるすばらしいものに触れる機会が、組織的に与えられるようになったのです。

「学ぶ」対象の変化

狩猟採集社会でも、学ばなければならない生きるために必要な知識はたくさんあります。それは主として自分を取り巻く自然環境についての知識でした。それは、自然を相手に自らの経験で学んだり、年上の子どもや大人の仕事ぶりを見て学ぶ形で獲得されていました。

しかしそれが近代になってからは、学ぶべき対象が人間自身が生み出した文化的知識にとって代わられるようになったのです。それにともなって学校という特別な場をつくるようになりました。

それは生きるための知識が、生活の活動の中に埋め込まれたものというよりも、言葉やマニュアルで表現されるものになり、体系化されたものとして表現できるからです。逆に言えば、日常生活とはいったん切り離された、見様見真似では学びにくく、誰かから説明や指導をしてもらわないと習得の困難な知識によって、社会が出来上がってきてしまいました。

使いこなせれば便利だがどう使ったらいいかわかりにくい複雑な機械の仕組み、その機械を使いこなすための作業手順、それが生み出す生産物をお金に換える仕組み、それらが社会の中で動き回るときのさまざまなお作法……どれも狩猟採集社会や、地域に根差した農業牧畜の社会にはなかったものでした。

だから学校が必要になったのです。これは歴史的必然です。かくしていまの私たちも、子どものときから家を離れ、学校で過ごすことが求められるようになったというわけです。

すばらしき学校生活

学校がこのようなところですから、基本的に家では経験できないようなたくさんの経験のメニューが子どもたちのために用意されています。それは考えようによっては、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンやキッザニアの比ではないほど、豊かな世界ともいえるでしょう。

ただし、テストさえなければ。

学ぶ<いい成績をとる

テストは、そのための勉強に集中することで、確かに経験したことを意識的に記憶にとどめるには役立ちます。ちょっと興味のもてないことでも、テストに出ると言われれば、何とかして理解できる糸口を探そうとして、それがきっかけとなって、自分の興味対象になるかもしれません。

しかしそれ以外の点で、テストの存在は百害あって一利もなしだと、私は考えています。

しかしこれを言うことが、ただの気休めにすぎないことも、読者の多くは感じていることでしょう。それはその通りです。なにしろ、テストの点が良ければ「良い」学校に進学でき、「良い」就職に結びつきます。逆に成績が悪くて落第してしまったり、大学に進めないと、その学歴だけで、よほど別のところで才能を発揮しない限り、社会的には不利になります。

学歴で手に入れた知識がどれだけうわべだけのものだったとしても、世間はまず学歴を見て人を評価しようとします。ですから、学歴とそれに結びつくテストの成績が、学んだ知識それ自体の実質的価値とは別の意味で、人生でもっとも重大な教育上の関心事となります。

テストの成績や学歴はお金に似ています。ただの紙切れにすぎないお札には、それ自体なんの価値もありません。なんちゃらペイにいたっては、スマホの画面上のただの数字にすぎません。にもかかわらずそれらは、生きるために必要な食べ物や服や住まい、生活を豊かにしてくれるさまざまなモノや経験を手に入れるための手段になります。

実質的に大事なのは、お金で手に入れたものをどのような目的で使うかのはずですが、いつのまにか手段と目的が入れかわり、お金をできるだけたくさん手に入れることが目的になりがちです。

同じようにテストの得点や学歴それ自体は何の価値もなく、大事なのは学校でどんな知識を学び、生きるために役立てるかのはずですが、いつのまにか良い学業成績や高い学歴それ自体が目的になってしまいます。お金はたくさんあればあるほど幸せと考えるのと同じように、テストの点数や学歴は高ければ高いほど良いという発想に陥りがちです。

このように学校教育の実質的側面と形式的側面の区別はきちんと意識しておきましょう。人によっては学歴こそが実質で、そこで本当に何を学んだかなんて形式的なものと考えるかもしれません。どちらでもよいのですが、この区別は大切です。ただこれを強調しすぎると、ただの学校批判、現実逃避といわれるのがオチなので、ほどほどにしておきましょう。

安藤 寿康 慶應義塾大学名誉教授・教育学博士

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