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何十キロにもおよぶ高速道の渋滞、電車や飛行機の大混雑を経ても…故郷へ日本人を駆り立てる「お盆」という風習

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年8月9日 16時0分

何十キロにもおよぶ高速道の渋滞、電車や飛行機の大混雑を経ても…故郷へ日本人を駆り立てる「お盆」という風習

(※写真はイメージです/PIXTA)

毎年、家族で実家に帰省し、親戚一同で集まるお盆。そもそもお盆とは、亡くなった方が現世に戻ってくる期間であることは広く知られていますが、その由来やなぜお盆の時期に盆踊りや花火大会が行われるのかについては知らない方も多いのではないでしょうか?  本記事では、山陰地方で呉服店を経営、和と着物の専門家である池田訓之氏がお盆について解説します。

お盆はいつごろからどのようにして始まったのか

由来

日本では、お盆の時期になると、仕事や結婚などで都会に出ていた人達が、何十キロメートルにもおよぶ高速道の渋滞、電車や飛行機など交通機関の大混雑を経てでも故郷へ帰ろうとします。これは外国にはない日本独特の風習です。ここまで日本人を故郷へと駆り立てるお盆とはどのようなものなのでしょうか?

まず、お盆という言葉は「逆さづり」という仏教用語から来ていることをご存じでしょうか。お盆は仏教用語の盂蘭盆(うらぼん)または盂蘭盆会(うらぼんえ)が略された言葉ですが、この盂蘭盆とはサンスクリット語で「ウランバーナー~逆さに吊り下げられた苦しみ」を意味するのです。

盂蘭盆経(うらぼん)という仏教の経典にこんな話があります。仏教を開かれたお釈迦様の弟子の目連尊者が、あるとき、神通力によって、亡き母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知りました。

そこで、どうしたら母親を救えるのかお釈迦様に相談に行くと、お釈迦様は、「お前が多くの人に施しをすれば母親は救われる」と答えられました。そこで、目連尊者は、夏の修行期間のあける7月15日に多くの僧たちに飲食物をささげて供養したのです。

すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられたのでした。その後この時期に先祖を弔うために行われるようになった仏教行事を盂蘭盆と呼び、これが日本の庶民のあいだではお盆と呼ばれるようになったのでした。

日本では、もともと夏に先祖の霊を祀る習慣があったこともあり、お盆の行事が広まります。斉明天皇の657年に仏教形式でのお盆の法要が初めて営まれ、その後は武家・貴族・僧侶など宮廷の上層階級に広まり、一般庶民に広まったのは江戸時代です。

庶民のあいだにも仏壇が普及し、ともにお盆の行事が知れわたったこと、またロウソクが大量生産によって安価に入手できるようになり盆提灯を庶民も手に入れられるようになったからです。

日本でのお盆は、太陰暦(旧暦)では7月15日を中心に行われるとされていましたが、明治5年の改暦後の現在の新暦では、ほぼ一ヵ月ずれるので、一般的には8月15日を中心に、13日から16日に施されるようになりました。

行事

まず、あの世から帰ってきたご先祖様を祀るための精霊棚(盆棚)を設けます。位牌を安置しお供えをします。棚に茄子(ナス)で作った牛や胡瓜(キュウリ)の馬が備えてあるのを見かけませんか。これは、ご先祖様の霊が牛に荷を引かせ、馬に乗って行き来するという言い伝えによります。周りには盆提灯を飾り、ご先祖様の霊を棚へ誘導します。

13日の夕方か夜に菩提寺とお墓に参り、祖先の霊を迎えます。ロウソクをたて、その火を提灯にともして家に持ち帰る。この火で玄関先でオガラ(麻の茎を束ねたもの)を燃やし場を清めます。立ち上がる煙にのり炎を目印にしてご先祖さまが帰ってこられるわけです(迎え火)。

帰ってこられたご先祖の霊は精霊棚に宿られます。迎えたご先祖様に対して極楽浄土でのさらなる安寧を願い、念仏を唱え供養をします。また先祖様と共に食事をするという意味で食べ物をお供えするなどして、ともに時をすごします。

そして、15日のお盆が終わると、ご先祖様を翌日の16日にはあの世に送り返します。玄関でオガラを燃やし(送り火)、提灯をお墓まで持って行き消す。こうしてお盆の間の一緒にすごしたご祖先を見送るのです。

お盆と盆踊りや花火との密接な関係

お盆にふるさとへ帰ると、盆踊りや花火大会が催される地域が多いと思いますが、これも実はお盆の行事のひとつなのです。

1.盆踊り

盆踊りは、ご先祖様の霊とともに踊って楽しんでもらい、この世への未練をなくしてあの世に帰っていただくために行われます。

そもそもは平安時代に仏教を広めるために「空也上人(くうやしょうにん)」が考案した「踊り念仏」が由来といわれています。空也上人は、仏教の堅苦しく難しいイメージを払拭しようと、念仏に節を付け、歌いながら布教活動していました。

鎌倉時代になると、「一遍上人(いっぺんしょうにん)」によって、踊り念仏は全国に広まります。そして踊り念仏には、死者の霊を慰め、極楽浄土へ導く力があるとされていました。踊り念仏に芸能性を加味した念仏踊りが生み出され、室町時代には人々は太鼓をたたいて踊るようになります。

お盆のときは人が集まるし、また祖先の霊を供養するという盂蘭盆と念仏踊りの目的が重なることから、盆に人が集まって念仏踊りが踊られるようになり、それぞれの地域固有の盆踊りへと発展していったわけです。

仏教的な意味合いから始まった盆踊りですが、次第に民衆の娯楽の要素が強まっていきました。江戸時代には地域住民の交流の場となり、また男女の出会いの場としても利用されるようになりました。昔は多くの男女が一緒に集まるイベントはほとんどなく、盆踊りは貴重な機会だったわけです。

そして旧暦は月の満ち欠けで暦を刻むので7月15日は満月で、月の明るい光のもと、気持ちは高ぶったことでしょう。男女が泊まり込むざこ寝堂が多くの農村に設けられました。明治時代には盆踊りは風紀を乱すとの理由で、取り締まりの対象になり盆踊りは激減しました。それが大正時代には復活し、日本の夏の風物詩としていまも受け継がれているのです。

ご先祖様の霊を楽しませ、また交友を図るのが目的ですから、盆踊りへの参加は原則自由です。ただ盆踊りで使用する曲や振り付けには、それぞれ意味があります。たとえば足踏みは先祖の霊を静めるためです。ですから、やぐらの上のリーダーなどを真似て、同じ振り付けで踊ってみましょう。

2.花火大会

迎え火、送り火というように、お盆には火がつきものですが、「火」はあの世とこの世をつなぐことができるものと考えられています。その火を大々的に集めたのが花火です。

たとえば、「たまや~」「かぎや~」の掛け声がかかる東京・隅田川の花火大会が有名ですが、こちらは八代将軍の徳川吉宗の時代である1733年に始まった日本最古の花火大会です。

この前年に日本は大飢饉に襲われ、100万人近い人が亡くなっていました。この弔いの意味で悪霊退散を祈願して開催されたのでした。祖先を敬う盆と意味が重なることから、やがて盆に集中して花火大会が実施されるようになり、現在に続いています。

3.五山の送り火や灯篭流し

京都市で周りの五山に火を灯したり、長崎の江迎千灯篭など川にロウソクを灯した船を流す灯篭流しも、火を大々的に集めた送り火のひとつです。

なぜ夏の定番イベントには浴衣を着るのか?

浴衣の歴史はトリビア

盆踊りはこのように、少なくとも大正時代から続く文化です、そのころの衣といえば浴衣。盆踊りの振り付けは浴衣が基本なので、浴衣で参加すれば、踊り姿が映えることでしょう。

この浴衣で出歩くようになったのは江戸時代からです。それまでは浴衣で外を歩くなんてことは考えられなかったのです、浴衣はその字のごとく浴室で着る衣でした。

平安時代ごろから日本人は風呂に入り出したのですが、水道網が発達していなかったので大量の水を集めることが難しく、当時は蒸し風呂でした。蒸し風呂内でやけどをしないようにと着たのが浴衣だったのです。

江戸時代の後半から明治にわたり現在のように貯める風呂が普及してくると、浴衣は入浴後に着るバスローブのような位置づけに変わっていきます。銭湯への行き帰りの衣として浴衣は用いられるようになったのです。

藍染浴衣で盆踊りや花火大会へ

江戸時代には、木綿の栽培が発達しました。安価で染付きのよい木綿地に、藍染めで柄付けをすれば鮮やか。

また、藍染は虫が寄ってこない、現代のアトピーのようにお肌がデリケートな方にも肌に優しい、武士は血止めにしていたというように抗菌作用もある、防臭効果もありということで、素肌の上に羽織る夕涼み着には最適ということで藍染浴衣が大流行します。

日本の藍染の原料は一年草で染料づくりに手間がかかるのですが、青が他国の藍染と比べて特に鮮やかだといわれています。ジャパンブルーと呼ばれる所以です。

こうして、湯涼みがてら、藍染の浴衣で花火や盆踊りに出かけるという、日本の典型的なお盆のスタイルができあがり、いまに至っているのです。

池田 訓之 株式会社和想 代表取締役社長

(※本稿はあくまでも一例で、地域や宗派により内容は異なることがあります。)

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