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円熟の楽しさが得られなくなる!健康幻想という怪物に振りまわされてはいけないワケ

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2024年8月18日 11時0分

円熟の楽しさが得られなくなる!健康幻想という怪物に振りまわされてはいけないワケ

(※写真はイメージです/PIXTA)

どうせなら、楽しく年をとりたいですよね。医学博士の大島清氏は著書『“円熟脳”のすすめ 脳を活性化させて健康で長生き』で、「人生の後半は、自分の脳をいかに円熟させるかにかかっているのです」と言います。一体どういうことでしょうか? 詳細を本書から紹介します。

健康幻想に踊らされている日本人

現代人はとくに「健康」という言葉に対して敏感になっています。ガンや脳卒中、心疾患にかからないかと多くの人がおびえ、健康にいいとされることには人々の注目が集まります。

もちろん、死ぬまで健康で、長生きできればそれに越したことはありません。その願いをかなえるべく、現代医学が進歩して、多くの病気を治してきました。昔は不治の病とされていた結核も、現代ではおそろしい病気ではありません。多くの生命を奪ってきた天然痘にいたっては、絶滅宣言すら出されました。いまや病原体の痘瘡ウイルスは、研究室の試験管のなかで厳重に〝保存〟されているのです。

医学の発展とともに、いわゆる伝染病がつぎつぎに退治されていくのを見て、私たち人間がつぎのように考えるようになったのは、すこしも不思議はないかもしれません。「いつの日か、人類はありとあらゆる病気を克服して、みんなが健康に生きられるようになるはずだ」

ガンにしても、昔はガンが出るまえに多くの人が死んでいきました。ガンが日本人の死亡原因のトップを占めるようになったのは、多くの人が長寿になったからにほかなりません。長生きすれば、ガンにかかるリスクは当然高くなるのですが、それがいっそう日本人の健康への不安に拍車をかけているのでしょう。

とにかくわが国では歴史上、これほど〝健康産業〟が発展したことはありません。エステティックやスポーツクラブの大流行。何やら得体の知れない健康食品の氾濫。二十代の若者たちはせっせと栄養サプリを常用し、スナック菓子まで「カルシウムがとれる」「ビタミンC入り」をうたったものが登場するといった具合です。

しかし、そうした「健康にいい」ものを追い求めても、それで健康になれた人がはたしてどれくらいいるのでしょうか。私にいわせれば、こうした〝健康幻想〟に振りまわされている脳は、円熟にはほど遠い未熟な脳であり、当然、円熟の楽しさも得られないでしょう。円熟について考えるとき、もちろん健康は大きな要素になってくるのですが、それには、私たちのこれまでの健康観そのものを見直してみる必要があるのです。

二元論では何もわからない

ここで一つ考えてみなければならないことがあります。それは、「そもそも健康とは何なのか」ということです。これまで人びとは、病気の原因になるものを何とかして排除しようとしてきました。細菌、ウイルス、ストレス、タバコ、あるいは公害の原因になるもの。こういった〝悪者〟をとり除くことによって、人間は病気から解放され、健康になれる、と考えてきました。そして、悪者・害をなすものを一生懸命駆逐しようとしてきたのです。

つまり、「病気をなくすこと」が「健康」だ、という健康観がその根底にはあるわけです。健康が善であるのに対して、病気は悪であり、両者はあい対立するものだというとらえ方です。その証拠に、病気で倒れる人間は敗北者だと思われてしまいます。体の調子が悪くても、オチオチ会社を休んでいられないのです。また病気は、悪くすれば犯罪と同じように見なされます。

「あいつは、この会社のガンなんだよなあ」こんなふうに、ガンという病気が、ダメな人間、劣った人間をたとえる言葉として使われています。ガンだけではありません。ハンセン氏病は、フランスなどではダメな人間の代名詞として使われています。かっては、エイズ患者に対しての差別がとくに問題でした。病院のなかには、エイズ患者の治療を拒否するところもあるのです。

エイズ患者がいると、ふつうの患者さんが怖がって来なくなるというのがその理由ですが、エイズの感染力が低いことをいちばん知っているはずの医療現場でそうした差別が行なわれていたのは、まことに悲しいかぎりです。差別のために、エイズ患者は、病気だけでなく、精神的な苦しみまで背負わされていたのです。

しかし、こんなふうに病気を「悪」としてとらえ、それを排除するだけで健康になれる、と考えるのはどうもおかしいのではないか、と思うのです。ものごとを白か黒か、あるいは善か悪かの二つに分類して判断する二元論は、ギリシヤ以来の西洋的な考え方ですが、この二元論には疑問を感じずにいられません。

たとえば、日本でも昔はハンセン氏病は〝業病〟とされた時代がありました。そして、患者たちは社会から排除されるということが、つい最近まで行なわれていたのも事実です。しかし、その一方で、彼らは神に近い存在として敬われたこともあるのです。聖なる印を背負った者として、たいせつに扱われたのです。日本では、病気はかならずしも「悪」ではなかったわけです。

こんな考え方の痕跡は、いまでも残っています。たとえば、政治家や芸能人。汚職の疑いをかけられたり、何か都合が悪くなると、決まって入院します。相撲の世界でも、負けがこんできた横綱や大関は、すぐに入院してしまいます。そして、いったん入院してしまえば、日本の社会ではそれ以上責任の追及を受けることはありません。病気だったらしかたがない、と免罪符を与えてしまうのです。

つまり、病院が一種の聖域となっているわけです。病気になったというと、それは人事を超えた天の意思であるかのように受けとられます。ほんとうに病気かどうかはわかりません。いや、たいていの場合、見えすいた仮病にすぎません。しかし、私たち日本人はそれでも許してしまうのです。日本というか東洋の病気についての考え方には、こうした二元論ではくくれない見方があったのです。

しかし、西洋的な二元論では、こんな考え方は出てきません。病気と健康は対極にあるものであり、病気そのものが悪と考えるからです。ですから西洋医学にもとづく現代医学は、健康になるために、必死で病気を取り除こうとします。悪いところがあれば、たいせつな臓器であろうと、それを切り取ってしまうことをいといません。とにかく悪いところさえ排除すれば、健康になれるというのですから。白か黒かのどちらかしかなく、そのあいだのグレーの部分は切り捨てているのが二元論の考え方です。しかし、ほんとうにそれで、人間の体がわかるのでしょうか。

人間は病気を持っているのがあたりまえ

二元論で言えば、健康なのが正常、病気は異常ということになります。両者はまったく相いれないものなのですが、この二つは、それほどはっきり区別されるものなのでしょうか。健康と病気とのあいだには、はっきりした境目があるのでしょうか。というのは、そもそも私たち人間というのは、だれでも病気の原因をもっているからです。

たとえば、人間の遺伝子を構成しているDNAの中に、ガンの原因となる遺伝子が四〇~五〇個もあります。この遺伝子が、何らかのきっかけによってガンを生み出すことになります。人間の体は六〇兆もの細胞でつくられていますが、毎日、そのうちの二パーセントである一兆二〇〇〇億の細胞が新しい細胞に入れ替わっています。このときに遺伝子がコピーされますが、一兆もの細胞があれば、そのなかに一つや二つコピーミスが生じ、その細胞がガン細胞化したとしても何の不思議もありません。

また、私たちを取り巻く環境の中には、化学物質、ウイルス、放射線など、遺伝子障害を起こすいろいろなものが存在しています。これらの影響によって、遺伝子情報にミスのある細胞のガンが促進されるわけです。実際、火のついたタバコを踏んだためにガンになって死んだ友人がいました。彼は、そのタバコの熱がきっかけで悪性の黒色腫ができ、それが全身にまわってしまったのです。

また、女性の子宮ガンの場合、一〇〇パーセント、ウイルスによって感染します。このウイルスは乳頭腫ウイルスといい、いうならばイボ作りのウイルスといってもよいでしょう。そして、男性からセックスによって移されるのです。その証拠に、尼さんにはこのウイルスはないとされ、子宮ガンもひじょうに少ないことがわかっています。

このように、ちょっとしたきっかけによって、私たちの遺伝子そのものがガンを生んでしまうのです。もし、ガンの原因となる遺伝子が存在していなかったなら、どんな条件でもガンはできないでしょう。私たちは、生きているかぎり、ガンを内在させているのです。実際、私たちの体のなかで小さなガンはしょっちゅう生じているのですが、体の防御システムがうまく働いているときは、それが大きくならないうちに退治されてしまうので、ガンとなって発病しないだけの話なのです。

たとえ一つの病気を克服できたとしても、また新たな病気が登場します。いってみれば、病気と人間は切っても切り離せないものなのです。私たちは、病気を持っていてあたりまえなのです。頭のてっぺんから爪先まで、どこを探しても病気はまったくない、などという人はおそらくいないでしょう。「病気がなくて健康」などという状態は、現実にはありえない幻想でしかないのです。

人間はもともとボーダーレスな存在

私たちはそろそろ、健康と病気を対立させ、二つに分けて考えることをやめなければならないと思います。「病気と健康」だけではありません。いろいろな分野において、私たちは二元論から脱出しなければならないようです。

たとえば、男と女という対立です。ニューハーフなどがあたりまえのように受け入れられ、社会的にも男と女のボーダーラインがあいまいになってきています。このような社会現象が現われるのも、じつは当然なのかもしれません。というのも、肉体的な性別と、脳の性別がくい違っていることがあるからなのです。

脳の中の視床下部というところに「性的二型核」という性欲中枢があります。この部分は、成人男女で大きな差があり、男性の核の大きさは女性の二倍にもなります。ところが、この部分は生まれた時点では男女の区別がはっきりしていません。四歳までは男も女も同じように成長していきます。

しかし、四歳を過ぎると、はっきり男女の差が現われてきます。その後、六〇歳ごろまで、男性の性的二型核の細胞数はほとんど変化がないのに対して、女性の核の細胞は四歳以降どんどん減っていきます。つまり、人間はおぎゃあと生まれたときに、男と女では性器がちがい、肉体的には男女ははっきり分かれていますが、脳はまだ男女の違いがない、ボーダーレスの状態ということなのです。

しかも、ややこしいことに、男性器の持ち主でも、性的二型核の細胞の数が女性なみに減ってしまう人もいるのです。体の性は男性でも、心の性は女性という人です。男性でも女性でもない、あいまいな性です。というより、本来、人間は両性具有の存在と考えたほうがいいでしょう。

性器ももともとはメスが原型で、そこからオスの性器が分化していくわけですし、脳の性分化も、そのときの条件しだいで、男女どちらにでも転びうるのです。そう考えれば、男と女という性別も、明確に分けられる区別があるわけでなく、かぎりなくボーダーレスなのです。

ボーダーレスといえば、たとえば能楽も、ボーダーレスの芸術なのだそうです。最近は各地で薪能が催され、ふだんはお能とは無縁の人でも、その雰囲気に誘われて出かけるようになっています。しかし、この能楽を見物していると眠くなって困るのです。こちらに能楽の知識が乏しく、何を語っているか耳で聞いていてもよくわからないし、舞台はシンプルで、しかもあまりにゆったりした動きなので、いくら目をこらしていても、つい眠くなってしまうのです。上演中に寝てしまうようでは、能楽を見る資格がないといわれそうだと思っていましたが、そんな心配は必要なく、じつは能楽そのものが見物人が眠くなるように仕組まれているのだそうです。

逆にいえば、見物人が眠くならないと困る、とさえいいます。客席にいてうつらうつらと眠くなってきたとき、つまり覚醒と眠りの境目にあるとき、見物人は、能役者の上に降りてきた神を見るからだそうです。眠りと覚醒。この対立する世界の中間にある「半覚醒」の時間が尊いのだ、と能楽は私たちに教えてくれているようです。

こうしてつきつめていくと、「生」と「死」という、けっして相いれないはずの二つの大きな世界についても考えずにはいられません。現代医学は、死というものをいかにして人類から遠ざけ、隠すか、ということを追求してきました。しかし、それこそ大きな誤りだったのではないでしょうか。

お釈迦さまも言っています「人は生まれたから死ぬ」と。仏教では、死から目をそらすのではなく、死をまっすぐ見据え、死を前提として生きることを教えています。生はすなわち死であり、死はすなわち生なのです。死を生と対立するものとして退けるのではなく、生とのつながりで見つめることは、じつはよりよく生きること、人間の精神生活を豊かにしてくれるものではないでしょうか。

病気と共生して、健康に生きる

このように、西洋流二元論は、いま、あちこちでほころびを見せています。二元論ではとらえられない〝真実〟があることに、多くの人が気付きはじめたわけですが、病気と健康の関係についても、まったく同様のことがいえるのです。

西洋医学ではこれまで、病気の原因、たとえば細菌やウイルスといったものを排斥しようとしてきました。しかし、人間は一部の細菌やウイルスとも共生してきたのです。たとえば、悪玉菌の代表のようにいわれる大腸菌ですが、これが腸内にいなければ、じつは人間は食べたものを消化することができません。

また、私たちの周囲の環境を見ても、バクテリアが有機物を分解してくれているがために生態系のバランスがとれています。諸悪の根元のように言われているウイルスですら、人類の進化に貢献してきたものがあるのです。私たちが生きるということは、こうした微生物と共生し、さらには病気とも共生することだと言えるのではないでしょうか。それなのに、無理やり病気を追放してしまおうとするから、ゆがみが出てきます。

ありもしない「健康」という名の幻想を求めるがあまり、かえって健康から遠ざかっている人もいるのではないでしょうか。健康食やサプリメントをとっているために、逆に日常の食事がおろそかになっている人。高いお金を払ってスポーツクラブの会員になり、体を動かすことよりも「会員である」というプライドを満たしているだけの人。こういった人たちは極端な例としても、きっちり健康管理をして運動もしっかりしていた人があっさり心筋梗塞で死んでしまった、という例もあります。いくら「健康幻想」を追い求めても、病気そのものと無縁で生きることはできないのです。

これからの高齢者社会では、血圧が高いとか、糖尿の気があるとか、病気をかかえた人が増えてくることでしょう。そうした人たちを、すべて「病気だから健康ではない」と切り捨ててしまったら、不幸な人を大量につくり出すだけです。「自分は病人だ、もうダメなのだ」と絶望してしまったら、その人はほんとうに病人になってしまい、生きる気力もなくなってしまいます。

しかし、病気を持っている人でも、病気とうまくつきあって共生していけば、いくらでも健康に楽しく生き、円熟した豊かさを味わうことができるのです。病気の排除から、病気との共生へ。このように二元論を越えて、健康と病気をボーダーレスととらえることこそ、健康について考えるうえで、これからは重要なポイントになってくるのです。  

大島清 医学博士

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