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「毒物の販売」を自由にすべきか?165年前の自由論に学ぶ…商売の自由と規制の“境界線”【19世紀の経済思想家が語る】

THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン) / 2025年1月16日 11時15分

「毒物の販売」を自由にすべきか?165年前の自由論に学ぶ…商売の自由と規制の“境界線”【19世紀の経済思想家が語る】

画像:PIXTA

商売の自由は、私たちが日々当たり前のように享受している経済活動の基盤です。しかし、取引の自由度をどこまで認めるべきか、社会がどの程度介入し、どのような制限を課すべきかという問いは、経済活動の根幹に関わる重要なテーマです。19世紀で最も影響力のあったイギリスの政治哲学者、経済思想家であるジョン・スチュアート・ミルは、「自由交易」という考え方を通じて、商売の自由と社会的規制のバランスを深く掘り下げました。本記事では、書籍『すらすら読める新訳 自由論』(著:ジョン・スチュアート・ミル 、その他:成田悠輔 、翻訳:芝瑞紀 、出版社:サンマーク出版)より、ミルが提唱した自由交易の理念を手がかりに、商売の自由がどのように社会の利益と調和するのかを考えます。

「自由交易」の考え方

商売は社会的な行動である。なんらかの商品を売ろうとすれば、他者の利益、そして社会全体の利益に影響を与えることになる。

つまり、商売における行動は、原則的に社会が管理するものだと言える。そのため以前は、重要だと見なされるすべての商品について、政府が価格や製造法を定めるべきだと考えられていた。しかし、長きにわたる論争を経て、その風潮は変わった。

いまでは、生産者と売り手に完全な自由を与えてこそ、安価で質のいい商品が市場に出回ると認められている。唯一の条件は、買い手にも「買う場所を選ぶ自由」を与えることだ。この自由がなければ、売り手の暴走を防げないからだ。

以上は、いわゆる「自由交易」の考え方である。本書で扱ってきた「個人の自由」とは異なる根拠にもとづいているが、根拠がしっかりしている点は同じだ。

商売の制限と自由の対立

商売に制限を設けることも、商売のための生産に制限を設けることも、つまるところ「束縛」にほかならない。そしてあらゆる束縛は、束縛というだけで「悪」である。しかし、商売における制限は、社会が管理する行動だけを対象にするものだ。そうした制限を「間違い」だと言えるのは、求めた結果を出せなかった場合に限られる。

個人の自由の原理は、自由交易の考え方には含まれていない。そのため「自由交易の限界」についての問題ともほとんど関係がない。

たとえば、「粗悪品が詐欺まがいの方法で販売されるのを防ぐために、社会はどこまで人々を統制できるか」とか「危険な仕事に従事する労働者のために、衛生管理や安全管理をどこまで雇い主に強制できるか」といった問題に、本書で論じた原理がかかわってくることはめったにない。せいぜい、「人々を統制するか自由にさせるかのどちらかを選ぶとしたら、後者のほうが社会の利益になる」と言えるぐらいだ。とはいえ、先ほど挙げたような問題の場合、原則としてなんらかの統制が必要になることは確かだ。

一方で、商売への干渉にかかわる問題のなかには、自由の問題と重なるものもある。禁酒法の話もそれにあたるし、中国による阿片輸入の禁止や、毒物の販売に対する制限なども含まれる。いずれも「ある商品の入手を困難あるいは不可能にする」ことを目的にした干渉だ。こうした干渉に対しては、「生産者や売り手の自由への侵害」ではなく「買い手の自由への侵害」を根拠に反対することができる。

犯罪や事故を防ぐ「自由の侵害」とは?

いま挙げた例のなかで、「毒物の販売」だけは別の問題につながってくる。「警察の機能」と呼ばれるものの限界はどこか、犯罪や事故を防ぐための「自由の侵害」はどこまで認められるのか、といった問題だ。

実際に発生した犯罪を摘発して罰を与えるだけでなく、犯罪を未然に防ぐことも政府の義務である。このことに異論がある人はいないだろう。だが、犯罪の予防においては、政府の権限が拡大解釈されやすい。犯罪を処罰するときに比べて、人々の自由が侵害される可能性がはるかに高いのだ。なぜなら、人々の「正当」な行動のなかに、「どのような犯罪にもつながらない」と言えるものはほとんどないからだ。

とはいえ、誰かが犯罪に手を染めようとしているのを目にしたなら、その人が犯行に及ぶまで待つ必要はない。警察はもちろん民間人でも、犯罪を防ぐためにその人の行動に干渉することが認められる。

もし毒物が、殺人以外に使い道がないものだとしたら、その生産と販売を禁止するのは100%正しいと言える。だが現実的には、合法的かつ有益な目的のために毒物が使われることもある。犯罪の防止のために毒物の販売を制限すれば、有益な行為までさまたげるかもしれないのだ。

繰り返すが、事故を防ぐことは政府の正当な義務のひとつだ。いまにも落ちかねない橋を渡ろうとしている人がいて、その人に警告する余裕がないときは、強引につかまえて引き戻してもいい。引き戻した人が警察官であれ一般市民であれ、その行為は「自由の侵害」にはあたらない。自由とはつまり、「望んだことをする自由」であり、橋を渡る人は「川に落ちる」ことを望んでいるわけではないからだ。

だが、その人が被害に遭うと確定したわけではなく、「被害に遭う可能性がある」だけだとしたらどうだろう? その場合、リスクを負うべきかどうかを決められるのは本人だけだ。その人がまだ子どもだとか、正常な判断ができない状態にあるとかいう場合を除いて、危険について警告する以上のことはしないほうがいい。

この考え方は、毒物の販売の問題にも適用できる。そうすることで、考えうる数々の規制のうち、どれが認められてどれが認められないかを判断できるようになる。

たとえば、「製品のラベルに危険性を明記する」ことを義務づけても自由の侵害にはならない。「買った商品が『有毒』だという事実を知りたくない」という買い手はまずいないからだ。しかし、「医師の証明書がなければ買えない」という規制ができたらどうだろう? 正当な使い道のために毒物を求める人からすると、余計な費用がかかううえ、購入事態をあきらめざるをえなくなる可能性もある。

犯罪防止のカギは「証拠」にある

そういう人の自由を尊重しながら、毒物による犯罪を抑制する唯一の方法は、ベンサムが「予定証拠」と呼んだものを用意することだろう。

この方法は、おそらく誰もがよく知っているものだ。なんらかの契約が結ばれる際は、その履行を強制するための条件として、「署名」や「証人の立ち会い」といったものを法律上必要とする。これはふつうのことであり、正しいことでもある。もし、あとになって揉めごとが起きたとしても、契約が確かに結ばれていることや、法的に無効になるような事情がなかったことを証明する証拠になるからだ。この方法なら、虚偽の契約も、締結の経緯がわかれば無効になるような契約も、効力を発揮しなくなる。

犯罪につながりかねない商品を販売するときも、このような予防策を強制すればいいのではないか。売り手側には、商品を販売した日時、買った人の住所と氏名、販売した商品の量と品質を正確に記録することを義務づける。さらに、買い手の購入目的も事前に聞いておき、同じように記録として残しておく。

医師の証明書をもたない人に売る場合は、第三者に立ち会いを求めてもいい。そうすれば、あとでその商品が犯罪に使われたときに、買い手は購入した事実を否定できなくなる。この方法なら、買い手に強いる負担を最小限に抑えながら、商品がこっそり犯罪に使われる危険を大幅に減らすことができる。 

社会が干渉せざるをえない「怠惰」が“招く結果”

犯罪を防ぐために予防策を講じることは、社会に与えられた権利である。そのため、「個人の行動が他者に影響を与えない場合、社会が干渉することは許されない」という規則を完全に守るのは不可能だ。

酔っ払いを例に挙げよう。ふつうなら、酒に酔うことを法律で禁止されたり、酔っ払ったせいで罰を受けたりはしない。だが、酒の勢いで他者に暴力をふるった過去がある人の場合はどうか。その人にだけ特別に制約が加えられたとしても、仕方がないのではないか。制約を加えられている期間中に酔っぱらったら罰せられるべきだし、ふたたび酒のせいで罪を犯したら、以前よりも厳しい処分を受けるのが当然だろう。酒のせいで他者を傷つけるタイプの人間なら、酔うまで飲むという行為はそれ自体が犯罪にあたるのだ。

「怠惰」についても同じことが言える。怠惰だからという理由で罰を与えることは、専制的な抑圧だ(もちろん、社会の扶助を受けている人や、一定量の仕事をすることを義務づけられている人は例外だが)。

しかし、怠惰は避けられないものではなく、本人の気持ちしだいでどうにでもなるものだ。こうした原因のせいで育児を放棄したり、他者に対する法的な義務を果たさなかったりする人には、社会が干渉せざるをえないかもしれない。場合によっては、強制労働を課しても抑圧にはあたらないだろう。

本人以外に直接的な影響を与えない行動は、法律で禁止できない。だが、それが公序良俗に反するものだとしたらどうか。公の場でそういう行動をとるのを禁止するのは正当ではないだろうか。

たとえば、風紀を乱す行動がそれにあたる。それ自体は悪いことではないものの、人前で行われてはならないとされている行動は多い。とはいえ、本書のテーマから少し外れてしまうので、ここで詳しく論じるつもりはない。 

ジョン・スチュアート・ミル

政治哲学者

経済思想家

※本記事は、約165年前に出版された19世紀を代表するイギリスの政治哲学者、経済思想家ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を基にした新訳書籍『すらすら読める新訳 自由論』(著:ジョン・スチュアート・ミル、その他:成田悠輔、翻訳:芝瑞紀、出版社:サンマーク出版)からの抜粋です。

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