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「かつては普通の生活商店街だった」――横浜中華街165年の歴史を辿る

&GP / 2024年11月24日 17時0分

「かつては普通の生活商店街だった」――横浜中華街165年の歴史を辿る

「かつては普通の生活商店街だった」――横浜中華街165年の歴史を辿る

横浜の代表的な観光名所であり、国内外から連日多くの観光客が訪れる横浜中華街。エリアには600ともいわれるお店が軒を連ね、そのうち約170店舗が中華料理のレストランで、各店とも「味」を武器にしのぎを削り合っています。

また、食だけでなくエリアでは暦ごとにさまざまな中華様式の行事が行われこういった散策もまた、観光客にとっての魅力の一つ。日本全国を見渡せば長崎の長崎新地中華街、神戸の南京町といった複数の中華街が存在しますが、横浜中華街は特に中華文化を発信する強い影響力を持つエリアと言って良いでしょう。

他方、国内外に知られる横浜中華街ですが、その成り立ちや変遷について、細かく知る人はそう多くないようにも思います。今回は、この横浜中華街のストーリーと未来、そしてエリア内の料理店におけるリアルな思いについて、横浜中華街発展会協同組合理事で、中華街大通りに構える中華料理店「一楽」オーナーの呉政則さんに話を聞きました。

▲横浜中華街発展会協同組合の理事で、中華街大通りの料理店「一楽」オーナーの呉政則さん

■教養ある華僑の下働きをする「三把刀」によって少しずつ街が形成され始めた

▲横浜の代表的観光名所であり、関東を代表する名観光スポットの一つと言っても良いはずの横浜中華街。その165年の歴史をたどります

今から165年前の幕末の1859年に横浜の港が開かれた頃、開港にともなって続々と世界各地の人が横浜に上陸すると、中国の広東・上海からも大勢の人たちがやってきます。

このうち特に広東人は、当時から海外交流が盛んで、各国の言語にも長けており、横浜にやってきた世界各地の人々と日本人との通訳者としての役割を果たしました。呉さんによれば、こういった「言語に長けた教養のある中国人(以下、華僑)の下働きをする人たちが、この地で『中華料理』の文化を広めた」と言います。

「開港当初、中国からやってきたのは広東・上海の沿岸部に近い人たちでしたが、その中心は比較的裕福で教養のある人たちでした。中国本国でも身分が高い人たちでしたので料理を作ったり、洋服を仕立てたり、理髪したりする下働きの使用人も一緒に横浜に連れてきました。こういった人たちの職業はいずれも包丁やハサミといった刃物を使うことから『三把刀(さんばとう)』と呼ばれました。

身分の高い華僑は、外国人居留地だった山手エリアで暮らし始めますが、下働きの三把刀の人たちは現在の横浜中華街エリアに暮らすようになりました。当時は『横浜新田』と呼ばれ、整備された土地ではなく、雨が降ればすぐにビチャビチャになるようなあまり良い場所ではありませんでしたが、後に少しずつ独自の街並みを形成していくようになりました」(呉さん)

■かつては生活者のための商店街。観光客が訪れる場所ではなかった

▲年代は不明ですが、おそらくは横浜中華街の黎明期の頃の写真。現在の横浜中華街の入り口付近(画像提供:横浜開港資料館)

▲現在の横浜中華街の入り口付近

後に横浜と香港・上海の間に定期航路が開通すると、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷といったさまざまな技術を持つ華僑が続々と横浜にやってくるようになります。また、北海道産のアワビやナマコといった中国で人気のある食材を逆に香港・上海に輸出する拠点にもなり、中国と日本との貿易を加速させたのもここ横浜中華街でした。

そんな中、横浜に移り住んだ華僑たちの暮らしに重要だったのはやはり「食」。

前述の三把刀のうちの料理人たちが中華料理店がオープンし、それまでの日本にはなかった中国式の料理をあくまでも華僑向けに始めたと言われています。

▲横浜中華街に中華料理店が出始めた時代の写真。現在の善隣門から入ったあたりのもので、左側には今日まで続く「萬珍楼」があります(画像提供:横浜開港資料館)

▲こちらもおそらく同時代の写真。かつて存在した老舗料理店「聘珍楼」の看板が左側に見えます(画像提供:横浜開港資料館)

▲呉さんがオーナーを務める中華街大通りのレストラン「一楽」。こちらもまた90年以上続く老舗です

呉さんがオーナーを務める中華街大通りのレストラン「一楽」は90年以上続く老舗ですが、開業当初はエリア内はまだ「地元の人たちのための商店街」といった雰囲気で、今日の観光スポットのような賑わいは全くなかったと言います。

「親父から伝え聞いた話ですけど、うちの店の開業当初は中華料理店も10軒ほどだったそうです。もっと後で僕が生まれてからも、横浜中華街は今のような雰囲気ではなく、あくまでも地元の生活者のための商店街で、エリアには銭湯や映画館があるような普通の街でした」(呉さん)

■数々の震災や戦争を経験し、日本人とは別のカタチで翻弄され続けた華僑たち

▲横浜中華街の名所の一つ、横浜関帝廟。1871年に建立られた初代は1923年に関東大震災で倒壊。間もなくして再建された2代目も1945年に空襲で消失。1986年には3代目も原因不明の火災で消失。現在の4代目は1990年に再建されたもの

前後しますが、1923年に起きた関東大震災が発生。古いレンガ造りの家屋が密集していた横浜中華街エリアも大打撃を受け、多くの華僑が命を落としました。また、1937年には日中戦争が勃発。華僑にとっては祖国と居住国が戦火を交えることで、苦渋に満ちた立場に立たされることにもなりました。

また、第二次世界大戦末期の1945年5月には米軍からの大空襲を受け、特に横浜中華街は一面火の海になるなど、日本人とはまた別のカタチで歴史や災害に翻弄され続けました。

しかし、戦後復興期には横浜の港が拠点となり、中国と日本の貿易が再開。また、進駐軍向けのバーなども出始め、さらに朝鮮戦争が勃発すると、日本から戦地へと赴く米軍兵や船員で賑わいました。

▲横浜関帝廟のすぐ脇にある横浜中華學院。1898年設立の大同学校を前身としながらも1937年の日中戦争を境に一時事実上の閉鎖に。終戦後の1946年に再建され、翌年の1947年に現在の名称に

ただし、この戦後復興期にあってもまだまだ一大観光地としての顔は持たず、あくまでも生活者の商店街である一方、夜になれば米軍兵が行き交うというややシュールな独特の街並みだったと言います。では、どの時代から今のような観光地としての飛躍を果たしたのでしょうか。

「戦後の復興、経済成長とともに横浜中華街も復活していきましたが、決定的だったのは1972年の日中国交正常化です。この年を境に横浜中華街の様相が一変しました。中国が上野動物園にパンダを貸し出し、日本人の間に中国ブームが巻き起こり、横浜中華街も注目されるようになります。

そして、バブル期以降に一般観光客がワーっと押し寄せるようになり、今日のように『横浜の観光地』として知られるようになりました」(呉さん)

■イケイケだったバブル期と、横浜中華街の店ならではのリアル

 呉さんいわく「特にバブル期には横浜中華街全体がイケイケ」だったようですが、バブル崩壊後、その余波が1年ほどの時差を置いて横浜中華街にもやってきます。

「バブル期は『中華街大通りに店を構えてさえいれば、未来永劫潰れることはない』と言われ、実際うちの店でも開店から一瞬で満卓になるような状況でした。売り上げはどんどん上がっていきましたが、バブルが崩壊して1年くらい後から、客足が遠のくようになり、徐々に徐々に売り上げが下がっていきました。

ただ、壊滅的な状況にはならず、言わばバブル期のイケイケ以前の状況に戻った程度だったとも。長年、この地で苦楽を経験してきた華僑の強さのようにも映りますが、しかし呉さんはここで商売人としての堅実かつ冷静な話をしてくれました。

「バブル崩壊で経済的には確かに悪くなった時期でしたが、すでに観光地として支持を集めていたこともあり、決定的な打撃があったわけではありません。

でも、よその街の経営者の方と交流するようになり、こういった方々が横浜中華街に来てこう言うんです。『横浜中華街はいいですね。平日の午後でもこんなにお客さんが歩いてるんだから。私たちの街なんて、この時間帯に人が歩いてることなんかないですよ』と。

それを聞いて僕は『なんて恵まれた環境で商売ができているんだろう』と思うと同時に、ここで商売をコカすことがあれば、まず他のどこで商売をやってもダメだろうと。そして、この恵まれた立地で商売をしているのだから、さらに『自分の店に来てもらえるような努力』をすれば、他の街よりも効果が出やすいわけです。だって、『横浜中華街に行きたい』という人はすでにみんなの中にあるわけですからね。

でも、努力をせずに営業を続ける店もあれば、『単に価格を下げれば良い』と考える店もあります。こういったことを繰り返せば、長い目で見ればやがて横浜中華街に人は来なくなります。そうではなく、横浜中華街各店それぞれのやり方で良いので、日々努力を続けることで、さらなる未来が開かれるんじゃないか……そんなふうに僕は考えています」(呉さん)

■東日本大震災、コロナ禍などでゴーストタウン化するも呉さんの店の売り上げが落ちなかった理由

 2011年の東日本大震災、そして2020年から2023年までのコロナ禍では、一時期横浜中華街全体がゴーストタウン化した時期がありましたが、それでも呉さんの店「一楽」では、特に昼間の売り上げは全然落ちなかったとも。

「『中華街大通りに店があれば絶対大丈夫』とは思わず、僕の代になってから地道な地域密着型営業に変えたからです。確かに観光客が多く訪れる横浜中華街ですけど、それに甘えずに、むしろ近隣で日々を過ごすサラリーマンや地元の人たちに好かれる店にするようにし、他店にはないメニューをいろいろ出すようにしました。そして、家族経営の良さみたいなものを知ってもらえるようになると、忘年会、歓迎会、何かの打ち上げみたいな飲み会でうちを使ってもらえるようになりました。つまり、確固たる母数は、常連さんの数です。店によって考え方は異なるでしょうけど、うちの店ではそんなふうに考え現在に至っています」(呉さん)

■よく聞く「横浜中華街のどの店に入って良いかわからない問題」の答えは…

 これだけ情報が盛んになり、娯楽や観光スポットが細分化された今を思えば、至極真っ当な考えのように思います。他方、何も横浜中華街が「保守的であるべし」と言っているわけではなく、特にスマホが浸透して以降、横浜中華街発展会協同組合では、地元のイベントなども強く打ち出し告知するようにし、広く横浜中華街に親しんでもらおうという発信も熱心に行うようになりました。

▲横浜中華街には、1年を通して複数回の恒例の催しがあります

「毎年の横浜中華街の催しの春節は、実は38年前から開催していたものでした。しかし、どうも情報発信が下手で近年まで地元の人にしか伝わらなかったところは否めません。こういった横浜中華街全体の広報は今後より一層発信に力を入れたいし、多くの人に訪れていただきたいと思っています」(呉さん)

▲最後に横浜中華街を訪れる多くの観光客が迷う問題についても聞きました

横浜中華街の165年にも及ぶ長い変遷と、エリアの一角で中華料理店を営む呉さんのリアルな話を聞くことができました。

最後に、ごくごく素朴な疑問であり、横浜中華街を訪れる観光客の多くがいつも迷う問題についても聞きました。それは「横浜中華街にはいくつもの中華料理店があって、どの店に入って良いかわからない」というもの。呉さんは笑ってこう答えてくれました。

「でも、それこそが横浜中華街の魅力の一つだと僕は思うんです。『今日はこの店に入って当たったね』とか『失敗した。前に行った店の方が良かった』とか、そこでさまざまな話が生まれるわけじゃないですか。それだけ選択肢が多いのも横浜中華街の特徴です。複数回来ていただき、多くの人に横浜中華街に親しんでいただければ嬉しいですね。

そして、横浜中華街がさらに横浜のゲートウェイ的な存在になり、横浜の他の街にも波及させられるくらいの役割を担うようになると良いなと僕は思っています」(呉さん)

<取材・文=松田義人(deco)>

松田義人|編集プロダクション・deco代表。趣味は旅行、酒、料理(調理・食べる)、キャンプ、温泉、クルマ・バイクなど。クルマ・バイクはちょっと足りないような小型のものが好き。台湾に詳しく『台北以外の台湾ガイド』(亜紀書房)、『パワースポット・オブ・台湾』(玄光社)をはじめ著書多数

 

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