きっちりは、ハッピーのために。/寿木けい 第2回 ひんぴんさんになりたくて。
Hanako.tokyo / 2022年9月6日 12時0分
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
二月に東京から山梨に引っ越した。
当日は、引っ越し会社からたくさんのスタッフがやってきた。
朝九時に着いたのは、四人の女性たち。私の分身として、あらゆるものを粛々と緩衝材でくるみ、箱に詰めてくれた。
午後、今度は男性四人組が到着。几帳面に養生をして、見事なチームワークで、トラックに荷物を積み込んでいった。
私はといえば、必要に応じてスタッフに指示を出し、持ち場を片付けながら、子どもたちの面倒をみていた。
一年で一番寒い季節の、長い一日。すべてのドアを作業のために開け放っていたから、日が傾くにつれて、ダウンを着ていても奥歯がカチカチと鳴った。
子どもたちのぐずりもピークになり、夕飯でどうやって機嫌をとろうか考えはじめたそのとき、男性チームの隊長らしき人が、声をかけてきた。
「お待たせしちゃって、すみません、二階へどうぞ」
事情がのみこめない私に、
「奥の寝室、お子さんと、どうぞ」
上ってみれば、空っぽになった部屋に掃除機がかけられ、暖房が入っていた。
夫にお弁当を買ってきてもらい、コートを脱いで車座になって食べた。こんなことが、涙が出るほどうれしかった。なんせ、朝からトイレに行く余裕も、座る時間さえも、なかったのだ。
慌ただしい状況のなかで、隊長が部下に寝室の掃除を指示していたのは、私も作業をしながらなんとなく聞いてはいた。掃除機までかけてくれるなんて、ずいぶん丁寧だなぁ──くらいに思っていたのだが、私たちのためだったのかと、このときになって分かった。
その職業ならではの、磨き上げられた心遣いを受け取るうれしさがある。
引っ越し会社には、〈作業が済んだ部屋を掃除し、家族の待機場所にする〉というマニュアルがあるのかもしれない。
けれど、あの隊長のように、時間に追われながらも臨機応変に仕切るというのは、なかなかできることではない。それも、場の空気を威圧しながらではなく、堂々と、にこやかに。リーダー然とした立ち姿を、今でも覚えている。
幸福な現場には、脳みそがちゃきちゃき回っている人がいる。そういう人は、よく見て、よく考えているから、気がついたときにすぐ動ける。制約がある環境できっちり働けるそんな姿に、憧れる。
きっちり働く。それは、目の前にいる相手を苦しくさせないために発揮される力なのではないだろうか。
十年ほど前、雑誌の仕事で、フランスの化粧品会社の撮影を担当したことがあった。著名な男性メーキャップアーティストが来日し、撮影当日は二十人を超える関係者がスタジオに集まった。
学園祭と正月がいちどにやってきたような賑やかな現場だったが、私と彼、そしてモデルを務めてくれた日本人の女性俳優の間は、和やかで、静かだった。
彼は、撮影が一カット終わるたびに、
「アーユーハッピー?」
私と彼女を交互に見て、こう聞いた。
くるしゅうないか。
くるしゅうない。
私たちがうなずくと、長いコンパスで満足そうにメイクルームへ戻っていった。予定より大幅に早く、撮影終了。これも、きっちり働くことのひとつの形だろう。なにより、彼が作り出したアイラインや口紅は、とても美しかった。
きっちりとは、辞書通りの四角四面な意味ではないし、過剰なサービスや労働によって支えられるものでもない。定義は揺れや曖昧さを含み、その人の個性や経験値に委ねられる。だからこそ、働くことについて語るのはおもしろい。
日々の暮らしは、誰かの無数の仕事によって支えられている。相手も、自分も、うれしくする働き方ができたら、どんなにいいだろう。
それぞれが目指すきっちりの中に、仕事の範疇を超えた、幸せに暮らすための大切なヒントがあるように思う。
後日、隊長の件を友人に話したら、
「その人たち、玄関で新しい靴下に履き替えたでしょ? あれ、人気なんだよ」
こう言って見せてくれたメルカリの画面に、パンダ柄の靴下が並んでいた。
ちゃんと気付きたかった。かわいいって言いたかった。見逃されてしまった心遣いが、きっと世界にはまだまだある。そう思って街を歩く。景色が変わる。
イラスト・agoera
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