サニーサイドの母/寿木けい 第12回 ひんぴんさんになりたくて。
Hanako.tokyo / 2023年4月19日 15時39分
本誌巻頭エッセイ、寿木けいさんの「ひんぴんさんになりたくて」。ひんぴんさんとは、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」=教養や美しさなどの外側と、飾らない本質が見事に調和した、その人のありのままを指す、という言葉から、寿木さんが生み出した人物像。日々の生活の中で、彼女が出逢った、ひんぴんさんたちの物語。
富山に住む母が先月コロナにかかった。幸いにも軽症で済み、自宅での隔離期間を終えて無事仕事に復帰した。
母は81歳にして現役の経営者だ。飲食店を経営して35年になる。
〈店あけられるの、うれしいと言いながら、出かけてった〉
同居する家族からこんな報告LINEが届いて、両手いっぱいに荷物をぶら下げて出かけていく母の姿がはっきり浮かんだ。母は私が小学生の頃にお店をはじめたから、私にとっての10代は、母の背中を毎日見送り、それからの長い時間をひとりで過ごすことの繰り返しだった。
母との年齢差が縮まることはないが、私自身も働き続けるにつれ、生き続けるにつれ、共感という点で母に近づいている。年老いた親として遠くに追うのではなく、ひとりの女性の人生として、横に並んで見るような場面が増えた。
まず、健康で働いていることがうらやましい。お店を守ってきたことも、情熱を持ち続けていることも、すごいと思う。
しかし、憧れも敬意もあるいっぽうで、こうも思う。引退して年金の範囲で暮らすほうが楽かもしれない。80代になってもまだ働かなくてはならないなんて、と思う人もいるだろう。
母が働いていることに、私はどうしてこんなに心を動かされるのか。「生きがいがあるって素晴らしいね」では済まされない何かがある。
ずっと昔、夫にプロポーズされた時、
「私、仕事は辞めませんから」
それでもよければ、と答えた意志は今も変わっていないが、当時と2023年ではその根底にあるものが違う。
それは自己実現や成長といった崇高な目標ではない。ただひとつ、ダークサイドに堕ちたくないという一心である。
ある友人がこんな話をしてくれた。
友人にはAという女友達がいる。Aは実業家であるお母様のひとり娘として、裕福な母子家庭で育った。
お母様は、娘には自分と同じような苦労をさせたくないという親心から、また、お金がすべてを叶えてくれるという信仰から、Aに自立の翼を育てることをしなかった。娘との別れは想定していたよりも早く、数年前に病気で亡くなってしまった。そうして、Aは一度も働いた経験がないまま40代を迎えた。
Aは莫大な遺産の使い方を決める教養をもたず、心の病が悪化し、今では支援が必要な状況にまでなってしまった。
しかし、誰を頼っていいかも分からない。やっとの思いで連絡したのが、友人だった。放っておけないと感じた友人は、福祉につなぐ手続きはもちろん、まめに電話をして話し相手になったり、ときに食事を届けたりして、少なくない時間をAのために費やしている。
精神的な孤立と、先の見えない闘病生活。Aのような状況は、誰の未来と差し替えられてもおかしくないと友人は感じているし、私もその気持ちが分かる。
事情から母とふたりで暮らしていた少女時代の私は、いつ社会の網の目から転がり落ちてもおかしくない状況にあった。当時このことを意識せずに済んだのは、母の明るい性分に守られていたからだと、今は分かる。時代も、よかった。
健康でさえあれば、どんな仕事をしたって子どもたちを育てていける自負はある。しかし、そう強く思えるのも今が健康であればこそ。もし大ケガをしたら。働けなくなったら。必要な支援を調べて、申請して、必要なサポートにたどり着くまでの道のりは長く煩雑だ。その距離を歩くには、折れない心が必要で、そのためには健康でなければ──話は結局、振り出しに戻ってしまう。
だからといって、怖がって悲観的な二ュースばかり集め続けるわけにはいかない。私が母の仕事復帰を心からまぶしく思ったのは、母の、あの、決まった時間に起きて身の回りをこまごまと整え、小さな家を快適に保ち、普段は質素に、しかしたまにうんとおいしいものを食べる生活が戻ってきたからだった。
仕事には、生活の歯車をなめらかにまわしていくための強い動機が含まれている。初めましての人と世間話をすること美容院に行って髪を整えることも、明るい色の服を着て気分をあげることも、ぜんぶ、歯車の潤滑油になる。
病、貧困、孤独とは無縁の明るい側を歩き続けるには、生活の細部を積み重ね、ドアを開けて外に出なくてはならないのだと、母を見ていて思う。
すずき・けい/富山県出身。編集者として働きながら執筆活動をスタートする。四半世紀の東京暮らしを経て、昨年から山梨在住。最新刊『愛しい小酌』(大和書房)が発売中。
No. 1219
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