藤原の子孫が語る! 平将門の本当の呪い!!

ハピズム / 2013年7月16日 18時22分

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 平将門、その名前は「呪い」の世界ではかなり有名である。

 こんにちは、宇田川敬介です。今回は、その内容について考えてみたいと思う。

 ところで、「宇田川」という苗字は、そもそも現在の渋谷宇田川町あたりを支配していた小豪族で、道玄坂の上あたりに居館を構えていたようだ。もちろん城といえるようなものではない。その宇田川家と徳川の重臣の大久保家が婚姻し、現在に至っている。 このい大久保家は、もちろん三河国のなかでさまざまな家柄がありますが、その代表的なものは、藤原家の家柄に当たる。

 藤原は大化の改新で功績のあった中臣鎌足が藤原姓を転地天皇から賜ることを祖とし、京都の貴族の中心となった。そして平将門が旭将軍を名乗り新王朝を建てるとなって、その討伐を命じられるのが「俵藤太」こと藤原秀郷である。この藤原秀郷は、藤原家の中でも武士としての活躍を行い、その子孫には中尊寺金色堂で有名な藤原秀衡や伊達政宗などがいるように、関東から東北にかけての支配を行っていたのである。

その家柄は、平将門と言うと仇敵とされ、最もその恨みの対象として思われている家柄なのである。徳川家康の江戸入府にしたがって天下普請による江戸城拡張工事を行っていた時に、どうしても平将門の霊廟、現在の神田明神の移転が必要になる。その時に、それを企画した大久保長安は、後に改易になっており、また大久保忠世は、すぐに病死しており、また、その嫡男忠隣は事件に巻き込まれて改易になっている。

さて、平将門の怨霊とはどのようなものであろうか。そもそも平将門は、常陸国を中心に平安時代に大和朝廷の維新で関東を平定することを命じられたのであるが、もともと自尊心が強く、そして平家として臣下の礼をとったものの、もともとは桓武天皇の血筋を引くことから、徐々に自分こそが正当な王権を持つものであるという感覚にとらわれ、新皇を戦勝し独立を行う。しかし、藤原秀郷に攻め滅ぼされるということになる。

 平将門は、一時優勢になるが数に勝る藤原軍に勝てず、歴史に残る最初のさらし首になる。京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐ることはなかったといいます。そして、さらし首になっている首だけが京の空を舞い、自分を裏切ったものの首や腕を食いちぎって関東に飛んで帰る。その首が落ちたところが現在の東京都大手町にある平将門の首塚であり、胴体が埋まっていたところが大久保が移転する前の神田明神、現在の皇居敷地内といわれている。また。食いちぎった首や腕が落ちたところ、または将門が愛した馬の死骸が埋まっているところ、将門が戦勝を祈願した刀が埋まっているところや、将門に従って討ち死にした者たちが眠る場所など、様々な場所が「平将門の怨霊の地」として残っているのである。

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