「子ども、もらってくれませんか?」 出産をめぐって揺れる女性たちを描く『犬のかたちをしているもの』

HARBOR BUSINESS Online / 2020年3月22日 15時31分

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◆『犬のかたちをしているもの』について

 2020年2月に高瀬隼子による『犬のかたちをしているもの』が集英社より出版された。高瀬隼子は同作で昨年10月に集英社の主催するすばる新人文学賞を受賞した。選考委員は江國香織、奥泉光、角田光代、高橋源一郎、堀江敏幸。

 本書は主人公である「わたし」がある日、恋人である郁也と彼の子どもを宿したミナシロさんと呼ばれる女と会うところからはじまる。ミナシロさんは子どもを産もうと思っているが、子どもを育てる気はない。そこで郁也と「わたし」の子どもとしてもらってほしいと告げる。「わたし」は子宮の手術以降、妊娠の可能性をあまり持たない体になっており、ピルを服用している。性行為は可能だが、一度傷ついた子宮にずけずけと侵入してくる男に対して冷めた感情を抱きがちで、郁也ともセックスレスの状態が長い。

 だからと言って「わたし」が子どもを欲しがっているわけでもなく、むしろ子どもというものへの愛着の希薄さから産みたいとは考えていない。だが同時に世間的に、もしくは社会的に、30歳を迎えた女性として子どもを持つべき、作るべき、という目線にストレスも感じている。そのような圧迫の中で葛藤する「わたし」の視点から、郁也との関係や、かつて飼っていた犬のロクジロウへの愛情などを描いている。

◆引き裂かれた女性としての「わたし」

 本書は欲求と役割の間で引き裂かれつづける女性の物語と言えるだろう。

 「わたし」は常に自分の役割を意識している。郁也という男の恋人としての役割、社会的なひとりの女としての役割、成人した子ども、孫としての役割、そういった自分が何を「したほうがいい」かということへの葛藤が常にある。

 恋人としてセックスをしたほうがいいというような意識、子どもをかわいいと思ったほうがいいというような意識、子どもを産んだほうがいいというような意識、そしてそういった役割を何の違和感もなく演じることができたら楽だろうというような意識を持つ一方で「わたし」はそれらを拒絶しようともしている。

 子どもをかわいいとは思えず、だから子どもを産みたいとも思えない。恋人とセックスがしたいとも思っていない。親や祖母を安心させたいとは思い、そういった意味で子どもができれば何かひとつの責任から解放されるような気がしている。

 「わたし」はそういった「したほうがいい」(と言われている)ことを「したい」と思えないために一種の罪を犯しているような意識を持っていることが文中から垣間見える。

 「わたし」を物語の中で動かすのは恋人の郁也ではなく、彼と子どもをつくった女、ミナシロさんである。ミナシロさんと郁也の間に恋愛感情はない(と言っている)。彼女は金をもらって男と寝ている。郁也との間に子どもができてしまったことはちょっとした手違いだと言う。結婚して、子どもを産んで(中絶は怖い)、離婚すれば、女性の社会的な役割は一通りこなしたことになるが、子どもは育てたくない。だから郁也と戸籍上結婚して、子どもを産み、離婚して、親権を郁也に移したいと彼女は言う。ミナシロさんは「わたし」の病気のことを知っており、そのことに触れて、子どもを連れた郁也ともう一度結婚すればいいと提案する。

 ミナシロさんは自分勝手で、人のプライベートを無思慮に脅かすような存在として現れるが、それでも「わたし」が彼女と郁也の子どもをもらうか葛藤しつづけるのは「わたし」とミナシロさんがある種の同類として描かれているからだろう。

 ミナシロさんもまた「わたし」と同様に女としての役割を面倒くさく思っている。男という生き物に対する冷めた態度も「わたし」と似ている。だがミナシロさんと「わたし」はその表出において真逆の態度を取る。セックスすること、妊娠すること、出産すること、そういった「わたし」には不可能(だと感じている)ことを、ミナシロさんはあっさりと踏み越えていく(ように「わたし」には見える)。だからこそ「わたし」は、ミナシロさんに対する嫌悪感と同時にある種の羨望のようなものを抱いているようにも読むことができる。

◆揺るぎない愛の対象としてのロクジロウ

 もうひとつ、この作中で重要な位置にあるものがタイトルにもある「犬」の存在である。作中惑い続ける「わたし」にとって、唯一揺るがないものが、かつて飼っていたロクジロウという犬へ抱いた強い愛情であり、逆に言えばその確かさはその他の不確かなものたちの間で「わたし」が揺らぎ続ける原因になっているとも言える。

 郁也に対する「わたし」の愛情は、ロクジロウへ抱いていた愛情ほど強い確信を抱くことができない。セックスや妊娠し出産することが、男への愛の証明なのだとしたら、「わたし」はその可能性を病気によってはく奪されている。肉体的なつながりから遠ざかりつつある「わたし」はより精神的な結びつきを強く求め、そのたびにこのかつて飼っていた犬、ロクジロウが現れる。ロクジロウの不在によって、「わたし」には確かな愛が「犬のかたち」をした穴として残る。「わたし」にとって「犬のかたちをしているもの」が確信的なものなだけに、不確かなものの間で生きる人々に対するある種の不信が強くなっていく。

◆子どものかたちをしているもの

 本作の非現実的な面を批判することは簡単だと思う。郁也という男の情けなさや、無責任さもあまりに目立ち、なぜそれでも郁也を愛そうとするのか共感することは難しい。もっと書き込むことのできた要素も多いようにも思われる。それでも、主人公が結末に向かっていく中でたどり着く言葉はとても美しい。

「わたしのほしいものは、子どもの形をしている。けど、子どもではない。子どもじゃないのに、その子の中に全部入っている」(『犬のかたちをしているもの』本文より)

 この言葉の中で「わたし」は「わたし」の不可能性とはっきりと出会う。探し求めてきた「犬のかたちをしているもの」を手放そうとする。諦めとも寂しさとも悲しさとも違う何か独特の感情がこの言葉にはあるように思われる。

 ニーチェは「人間が自らを神だと思わないのは、下腹部にその原因がある」と書いていた。月経、勃起、射精、妊娠、排泄、人間はいつも下腹部の起こす事態に振り回されて生きている。どんなに科学が発達し、あらゆる人権を確立させようとしても、下腹部との争いは解決できない。上半身による感情としての愛があり、下半身による行為としての愛があり、われわれはいつも引き裂かれている。

 『犬のかたちをしているもの』は下腹部と向き合うひとりの女性を誠実に描いている小説だと思う。女性だけでなく、多くの男性にも一度目を通してもらいたい。

<文/市川太郎>

【市川太郎】

1989年生。立命館大学文学部卒業。劇作家、演出家。主な作品に「いつか、どこか、誰か」(GEKKEN ALT-ART SELECTION選出作)、戯曲「偽造/夏目漱石」(BeSeTo演劇祭+参加作品)、「もう、これからは何も」(アトリエ劇研演劇祭参加作品)、「愛だけが深く降りていくところ」(「自営と共在」展参加作品)など。

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