金正男暗殺当日、二人の若い女性に何があったのか? 暗殺事件を描いた『わたしは金正男を殺していない』 監督インタビュー

HARBOR BUSINESS Online / 2020年10月12日 8時32分

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 2017年2月にクアラルンプール空港で発生した北朝鮮の最高指導者金正恩(キム・ジョンウン)の異母兄である金正男(キム・ジョンナム)暗殺事件を描いたドキュメンタリー『わたしは金正男を殺していない』が10月10日からシアター・イメージフォーラム他全国の劇場にて順次公開されています。

 金正男は一滴でも死をもたらすと言われる神経剤VXを顔に塗られ、数分後に息絶えた。しかもその場所は、異国の地、マレーシアのクアラルンプール空港。白昼堂々、国際空港のロビーという公の場での暗殺のニュースは、衝撃をもって世界を駆け巡った。しかもその犯行のすべては空港の監視カメラに収められていた…。

 数日後、2人の20代半ばの女性が容疑者として逮捕された。監視カメラに映っていたインドネシア人のシティ・アイシャとベトナム人のドアン・ティン・フォン。共に豊かな生活に憧れ祖国を出てクアラルンプールに来ていた。

 彼女たちは本物のプロの暗殺者なのか、それとも囮として仕立てられた暗殺者なのか。

 黒幕と思われる北朝鮮の工作員8人のうち、4人は事件後すぐにマレーシアを脱出、そのうちの1人、リ・ジョンチョルだけが逮捕される。しかし、北朝鮮はその逮捕を重大な人権侵害として北朝鮮に住むマレーシア人の出国を禁止。人質を取られる形になったマレーシア政府はリ・ジョンチョルと他の2名を釈放し、金正男の遺体も北朝鮮に引き渡した。それは、真実を闇に葬り、2人の女性を見殺しにする国家間の取引でもあった。

 工作員と思しき男性たちに誘われ、イタズラ動画の訓練を受けていたシティとドアン。事件発生当日の「後ろからVXを金正男の顔に塗る」という行為も動画制作の延長にあり、彼女たちは暗殺者ではないと確信した弁護団は無罪の獲得に向けて動き出す。マレーシアで有罪になれば死刑は免れない。シティとドアンは晴れて無罪となり、祖国へ帰ることができるのか――。

 監督・脚本は、性的虐待の罪で告訴された神父による殺人が疑われる事件の真実に迫ったNetflixのドキュメンタリー『キーパーズ』(17)、カリフォルニア州で同性婚をめぐって繰り広げられた歴史的裁判の舞台裏を描いた『ジェンダーマリアージュ 全米を揺るがした同性婚裁判』(16)など、話題のドキュメンタリーを世に送り出してきたライアン・ホワイトさん。今回は、ライアン監督に本作経緯やドキュメンタリーの役割などについてお話を聞きました。

※インタビューはアメリカ在住のライアン監督にオンラインにて行いました。

◆最初は信じられなかった

――金正男暗殺事件の記事を書いた友人のジャーナリストのダグ・ポック・クラークさんからの電話がきっかけで「このドキュメンタリーは僕たちが撮るべきではないか」と思ったとのことでしたが、その一番の理由は何だったのでしょうか。

ライアン:最初にダグから話を聞いた時には「2人の若い女性が動画制作の延長で騙されて殺人事件に関与した」という話自体が信じられませんでした。また、その頃ちょうど、旅が重なっていたので、地球の反対側にあたるクアラルンプールまで行くことは気乗りがしませんでした。

 ところが、プロデューサーに「考えて直してみない?」と言われて、カメラマンを連れて1週間だけマレーシアに行ったんです。そして、その時に事件の関係者や弁護団と話して「彼女たちの弁明は普通の感覚ではあり得ないけれども真実かもしれない」と思い始めました。そして、その時にこの事件を描いたドキュメンタリーを撮るべきだと思いましたね。

――どのような証拠を関係者から見せられた時にそう思ったのでしょうか?

ライアン:「この証拠があったから無罪を確信した」というよりも、有罪を確信できる証拠がなかったという方が正しいかもしれません。話を聞く中で彼女たちが何をしたかという証拠が提出されることを待っていたんです。でも、それは出て来なかった。

 彼女たちが事件の直前までやり取りしていた電子メール、WhatsApp、Facebookメッセンジャー、スマホの画像など全て見ましたが何か悪いことをしようとしているということの欠片すらありませんでした。彼女たちが有罪であるということの証拠が欠如していたので無罪を確信しました。

 それから劇中にもある彼女たちの事件発生当日の空港の動きを見ればわかりますが、非常に屈託のない、他愛なく振る舞う様子が映し出されています。彼女たちがもし暗殺者であったならば、世界最高峰の演技力を持った女優だったということになります。

 そして、彼女たちは無罪と見られる行動をしていましたが、事件発生まで一緒にいた黒幕の男性たちは有罪と見られても仕方のない行動をしてました。

――いつから取材をしていたのでしょうか?

ライアン:2017年2月に事件が起きたのですが、その年の12月ぐらいから始めました。1,2ヶ月に1回はクアラルンプールに行っていましたね。弁護団から何か大きな動きがあると情報が入った時には現地に行くという感じでした。

◆弁護団と築いた信頼関係

――シティさんとドアンさんの二人の弁護士の仕事ぶりについてはそれぞれどのように感じましたか?

ライアン:弁護団は共に真実に向かって歩む仲間というような特別な存在でした。私はドキュメンタリー作品であっても個性を活かすような演出をするようにしていますが、シティさんの弁護人のグイ・スン・セン弁護士とドアンさんの弁護人のヒシャム・テ―・ボー・テイク弁護士はそれぞれタイプが違っていました。そのことは個性を際立たせるという意味において、作品にとって良かったと思っています。

 グイ弁護士は物議を醸しだすような発言をしても意に介さないタイプでしたね。一方、ヒシャム弁護士はより控えめで言葉を選ぶタイプに見えました。映画を組み立てていく中で2人の対照的な人柄はとても面白く感じました。そして、グイ弁護士のチームは女性の弁護士が多くて、この作品の中に女性の視点を入れられることはとてもワクワクましたね。

 過去にも裁判をテーマにしたドキュメンタリーを作った経験がありますが、守秘義務との関係もあるので、訴訟の方針や事実を明らかにしたがらない弁護士もいます。ところが、今回の弁護団は皆、訴訟記録をすべてオープンにしてくれました。そのことには本当に感謝しています。

――ライアン監督と弁護団の間には信頼関係があるように感じました。

ライアン:長い時間を共にすることによって信頼を得ましたね。弁護団を取材することは、映画的に面白い仕事ではないんです。彼らはいつも何かを考えているか、読んでいるかという感じなので…。

 ただ、取材を続ける中で、弁護士たちはクライアントを信じていたということはわかりました。自分たちは正しさを主張する側にいて、そしてそのことをこの監督は伝えようとしてくれている、と自分を信じてくれたんだと思います。

 弁護団にとっては、無実を証明できなければ、クライアントが死刑に処されるかもしれないというリスクがあり、まさに生きるか死ぬかという状態でした。そういうこともあって、真実を撮影クルーに見せたいという気持ちがあったのかもしれません。

◆国家に翻弄される個人を描く

※以下のインタビューでは、物語の結末を含みます。

――国家間の政治的な背景とは別に、刑務所の2年間で培ったシティさんとドアンさんの友情や彼女たちの家族の物語など個人的な背景が描かれていました。「国家の事情により犠牲になる個人」という構図が映し出されていたと思いますが、このような演出は最初から想定していたのでしょうか。

ライアン:最初はそこまでは考えてはいませんでした。編集作業の中でその構図が浮き彫りになって来たという感じです。

 どちらかというと、政治的な背景等を描いたドラマよりも人間的なドラマに惹かれるので、最初から北朝鮮の内情や国家間の取引ではなく、この女性たちに焦点を当てて作品を作ろうと思っていました。

 ところが、制作の過程で、この映画を西側の人たち、つまりアメリカをはじめとした資本主義の国の人たちに見てもらったところ、地政学的な文脈が分からない人が多かったんですね。「金政権って何?前の世代はどうだったの?」というような質問が出ました。

 そこで、ある程度客観的に北朝鮮の歴史や政治事情がわかるようなシーンも盛り込みました。劇中にはワシントン・ポスト北京支局長アンナ・ファイフィールドさんのインタビューもありますが、実は編集の最終段階で入れたものだったんです。

 僕自身は映画作家としてヒューマンに寄っていくタイプですが、それを実現するには、政治的な背景を描かざるを得ませんでした。国家と個人というマクロとミクロのバランス、政治的なものと人間的なもののバランスをどのように取るかについてはかなり考えましたね。

――インドネシア政府の働きかけで2019年3月11日にマレーシアはシティさんに対する起訴を取り下げ、それによってシティさんだけが釈放され帰国します。結局、ドアンさんもベトナム政府の働きかけにより、同年4月1日に検察側が起訴事実を殺人罪から傷害罪へ訴因変更し、刑期の短い傷害罪の判決がなされますが、その3週間、弁護団やドアンさんのご家族、そしてライアン監督はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。

ライアン:あの3週間は本当に辛かったですね。2人とも無実だと信じていたからです。僕にとっても周りの人にとっても驚きでした。そして、なぜ1人だけが釈放されたのかという気持ちが駆け巡り、まさにカオス状態でしたね。

 起訴が取り下げられたシティさんはその日のうちにインドネシアに帰国しましたが、ドアンさんの方は大きなショックを受けていました。弁護団も家族も僕も、ドアンさんだけが処罰され、死刑になるのではないかという空気がありました。彼女だけがこの世を去るという最悪の結末を覚悟しなければならないと。

 2人とも有罪にされると思っていたので、当初の予定では、判決が出てから刑に処されるまでの短い期間で映画を公開して世界中に彼女たちの無実を訴えたいと思っていたんです。ところが、1人だけが釈放されて、僕たちはとてもグレーな立場に立たされてしまった。

 幸いなことに、ドアンさんには傷害罪の判決が下りましたが、少なくとも彼女の命は助かりました。今振り返ると、自由になった彼女たちに取材できたことが何よりも大切なことだったと感じます。

◆ドキュメンタリー作家の役割

――聖職者の性的虐待や殺人疑惑を描いたNetflixのドキュメンタリー『キーパーズ』もそうでしたが、ライアン監督は司法による公正の実現から外れてしまった事件の真実を突き留めようとしています。そのパワーはどこから来るのでしょうか?

ライアン:それは僕の仕事の好きな部分ですね。最初から目指していたわけではありませんでしたが、1作撮るごとに不正義への怒りが募っていったんです。

 ドキュメンタリー作家は明かされていない事実に遭遇することが多いのですが、それを世に公開して正義を問うのはドキュメンタリー作家の責任だと思います。ドキュメンタリーの作家であるからこそ真実を明るみにすることができるのであれば、それをすべきだし、政府や権力者など本来不正義を是正すべき人がそれをしていないのであれば、僕らは彼らに代わってチェックやバランスをとる機能を果たすことができると思っています。

 先程も述べましたが、もし彼女たちに有罪判決が下されていたならば、「無実の女性2人が死刑に処せられた」と国際的に物議をかもしたいと思っていました。ドキュメンタリー作家は権力や体制にいる側の人間が見落としてしまう事実を発見したり、チェックしたりすることができるんです。そして、そのことを真剣に受けとめていますね。

――この作品を通じて観客の皆さんに伝えたいメッセージをお聞かせください。

ライアン:真実は見た目ほどシンプルなわけではないということです。僕もこの事件のことを知った時には笑ってしまいました。「動画制作をしていた2人の若い女性が暗殺者なんてあるのか」と思って、一度は日常生活に戻って行ったんです。ところが、その後事件を追い続けたところ、様々な事実が明るみになりました。

 「真実は小説よりも奇なり」と言いますが、事件に関わっている人たちのことをしっかりと見つめて、そしてその声に耳を傾けなければならないということを知って欲しいですね。

<取材・文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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