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伝統的な価値観と対峙するチベット人女性を描く。ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』

HARBOR BUSINESS Online / 2021年1月27日 18時31分

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©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

◆妊娠をめぐって揺れるチベット人女性

 伝統的な価値観と現実との間で揺れ動くチベット人女性を描いた『羊飼いと風船』がシネスイッチ銀座他全国の劇場で公開されている。

 神秘の地・チベットの大草原。牧畜をしながら暮らす、祖父・若夫婦・3人の息子の三世代の家族。その若夫婦の妻、ドルカル(ソナム・ワンモ)は子どもを3人産み、家事に子育てに忙しい日々を過ごしていた。

 そんなある日、ドルカルは診療所を訪れる。男性医師に「女性の先生はいないか」と声を掛けるドルカル。女性医師が現れると避妊手術を申し入れるドルカル。医師が渡したコンドームをもう使ってしまったのかと聞くと「子どもたちが最後の2個を風船にしちゃって…」と恥ずかしそうに伝え、笑い合うふたり。来月に手術をすることを決め、医師はドルカルに1つコンドームを渡す。

 ある夜、夫のタルギェ(ジンバ)はコンドームを探すが見つからず、そのまま欲望を抑えきれずにドルカルに迫る。子どもたちはコンドームを風船と勘違いし、寝室で見つけた最後のコンドームを友達の持っている笛と交換してしまったのだった。

 後日、診療所で検査をすると、妊娠の判定が。まだ一人っ子政策が実施されていたため、女性医師からは「堕ろしなさい。また産んだら罰金よ」という言葉も同時に告げられる。家族の歓喜と堕胎を悪とする伝統的な価値観、そして良好とは言えない経済状態の中で悩み続けるドルカル。彼女が最後に下した決断とは――。

 ヴェネチア国際映画祭をはじめとした海外の映画祭で数々の賞を受賞し、東京フィルメックスでは最優秀作品賞に選ばれた本作。映画界の巨匠アッバス・キアロスタミ監督、ウォン・カーウァイ監督も賛辞を送り、各映画祭ではチベットの自然の美しさを背景にきめ細やかな心情を描いた秀作と話題になった。

 今回は、日本公開にあたり、本作の脚本・監督を担当したぺマ・ツェテンさんに製作のきっかけ、作品に込めたメッセージなどについて話を聞いた。

◆伝統的な価値観と現実の間で

 羊の群れの中をバイクに乗ったタルギェが登場するところから物語は始まる。購入から5年以上が経ち、バイクの調子が悪いとこぼすタルギェに対し、タルギェの父は「馬の方が便利だった」と呟く。

 そして、「みんな馬とバイクを交換してしまった」と返すタルギェ。古いものが新しいものに取って代わられることを象徴するシーンであるが、人の生き方も同様に新しいものになりつつあった。その間で苦しむのが主人公、ドルカルだ。

 ペマ監督は風に浮かんだ風船を見た時に「魂と現実の関係性」を探求してみたいと思ったという。この物語では、周囲の人々が輪廻転生を信じ、ドルカルの妊娠した子どもが少し前に亡くなったタルギェの父親なのではないかと考える様子も描かれる。

 「魂が現実と衝突した」というのは、「伝統的な価値観(中絶を良くないとする思想)=魂」と「女性が出産育児等の大部分を負うことや経済的な事情=現実」と取れるが、ペマ監督はどのようにしてこの物語を着想したのだろうか。

 この点について聞くと「空に浮かぶ赤い風船を撮りたい」と思ったことが出発点で、伝統的な価値観と女性たちが直面している現実という対立構造は最初から浮かんだものではなかったと回答があった。

 最初に「赤い風船」の絵が浮かんで、それをチベットで撮るとどのようになるのかというところから発想して「魂と現実」が摩擦を起こす物語を構築したとのことだった。

 伝統的な価値観に悩まされながらも、それを全く否定することはできないドルカル。60代と思しきタルギェの父親は若い頃に中国全土を吹き荒れた文化大革命を経験した世代であり、宗教弾圧が行われた厳しい世代を生き抜いてきたからこそ、伝統的な文化を重んじている。

 一方で、タルギェとドルカルは30代後半という設定だが、牧畜文化は残りつつも市場経済や電気、ラジオ、テレビ、バイクなど新しい文化が急激に流入してきた世代だ。嫁であり妻であり、そして母であるドルカルは伝統的な価値観と現実の間で悩む。

 ペマ監督にとって「伝統的な価値観と新しい習慣との軋轢の中における彼女たちの困難を想像するのは難しくない作業」だったとのことだが、モデルになった女性はいたのだろうか。

 それについては「特定のモデルはいないが、母親、姉、妹を含めたこれまでチベットで見聞きした女性たちを総合した女性がドルカル」との回答があった。ドルカルを通してチベット族の女性が直面している問題を描いたという。

 ちなみに、ペマ監督の母親が子どもを産んだ60年代は一人っ子政策が行われておらず「産むか産まないか」の二者択一の問題はなかったとのこと。この物語は90年代から00年代にかけての設定であり、一人っ子政策が行われていた時期だからこそ成立する物語にしたのだそうだ。

◆本当のチベット人の姿を

 避妊について女性医師に相談するシーンや中絶について悩むシーンなど、本作は女性の視点で細やかに物事が描かれている。男性であるペマ監督はなぜこのような描写ができたのであろうか。この点について尋ねると、ペマ監督はフェミニズムや女性の視点でこの映画を作り上げることは全く意識していなかったという。

「赤い風船にインスピレーションを受けてから、ストーリーを作っていく段階でエピソードを肉付けしていました。チベット族の女性を主人公にした小説も書いていたので、彼女たちが置かれている現状については関心を持っていましたが、フェミニズムを描きたいと思ったことはありません。他の映画を撮るのと同じで、彼女たちの心の動きを描きたい、そしてチベット族の女性が置かれている状況を小説や映画を通して知ってもらいたいと考えていました。それが今回の作品で実現できたのはとても良かった」

◆”性”がタブー視されるチベット

 また、コンドームを風船にした男の子たちが近所のおじさんに説教されるシーンや中絶手術をしようとする病室に父と息子が登場するシーンがある。性教育については日本でも度々話題になるが、チベットでは性に関する話題はタブーの領域であり、本作が現地で公開されたとしても、一家揃って見に行くことはないのだそうだ。

 性の話題は「子どもはもちろん、他の人にはオープンにしたくない」というのがチベット人であり、それを表現したのが、ドルカルが避妊手術の相談相手に男性医師を避けたシーンであるとのこと。ペマ監督は一見、シリアスに見えるこのシーンも「ドルカルと女性医師のガールズトーク」風にユーモラスに描いている。

◆チベット社会を俯瞰した本作

 ある意味においてチベット社会を俯瞰しているとも言える本作。チベット出身のペマ監督はなぜそのような視点で映画を撮ることができたのだろうか。それを聞くとこんな答えが返ってきた。

「チベット人の生き方を表現したいと思っていました。それが私の映画製作の出発点だったんです。と言うのも、今まで撮られてきたチベット人の映画は、それが漢民族の人たちによって撮られたものだと、ごく表面的な部分しか描かれていませんでした。

 そして、そのことに不満を抱いていたので、チベット人である自分が本当のチベット人の文化、気持ちを表したかったんです。そのためにかなり広い視点から映画を構築していったので、それが第三者的な視点と映ったのかもしれません」

 そして、チベット人の女性たちの思いは海外の女性たちにも伝わったという。

「2019年のベネツィア国際映画祭で上映された時の評判はとても良く、なかでもドルカルの人物像はヨーロッパの女性たちに共鳴してもらうことができました。違いはキリスト教とチベット教の差で、望んでいるとは言えない時に子どもができた時の困惑などは全く同じであるとのことでした。僕はあくまでもチベット人の視点でチベット人を描いたつもりでしたが、女性の普遍的な悩みが海外の方にも伝わったことがわかり、嬉しかったですね」

◆万国共通の葛藤を描いて

 ペマ監督は、小説家としてスタートした後に、映画のトップスクールである北京電影学院に入学し、映画脚本と監督学を学び映画製作を始めた。「小説も映画も好きだったが、小説の方が取り組み易かった」ため、まずは小説家になったのだという。

 当時のチベットは映画を見る環境はもちろん、映画製作ができるような環境ではなかったようだ。そこで、ペマ監督は一人でも取り組める小説を書き始め、30代に入ってから北京電影学院に入学し、映画を学んだ。今は小説を書き、映画も撮るという日々を送る。

 『羊飼いと風船』が日本初公開作品となるペマ監督だが、チベットに留まることなく、中国への留学を果たし、映画製作で数々の海外の映画祭などを回り、外の世界に影響を受けてきたからこそ、この映画を作ることができたという。日本のより多くの人にこの映画を見て欲しいとインタビューを締めくくった。

 ドルカル、タルギェ、妹のドルマ、そして妹のかつての交際相手。皆それぞれの直面する問題と対峙しているが、その悩みを創作に昇華して描きたかったというペマ監督。その葛藤は万国共通であり、国境を越えて人々の心を打つ。

 チベットの雄大な自然を背景に描かれた、細やかな機微の溢れる人間ドラマの結末に正解はない。様々な意味で豊かなこの物語を劇場で味わってみることをお勧めしたい。

<取材・文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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