沢村栄治3連投で初日本一「洲崎球場の熱闘」から始まった巨人―阪神伝統の一戦
スポーツ報知 / 2024年6月25日 6時0分
「伝統の一戦」。セ・パともに歴史の長い球団は数あれど、巨人―阪神の対戦が特別視されるのはなぜか。1936年12月、巨人と大阪タイガース(阪神の前身)がプロ野球初の日本一を懸けて戦った「洲崎球場の熱闘3連戦」があったからだった。突貫工事で造られた球場と、全てを懸けてゲームに臨んだ選手たち。2015年にミズノスポーツライター賞の最優秀賞を受賞した「洲崎球場のポール際 プロ野球の『聖地』に輝いた一瞬の光」(講談社)の著者・森田創さん(50)の話をもとに、現在の東京・江東区に存在した巨人が初の日本一に輝いた舞台・洲崎をひも解いた。
(樋口 智城)
巨人の指揮官・藤本定義は、洲崎球場で開催されるプロ野球元年の日本一決定戦を前に、悲壮な決意で臨んでいた。「私の腹の中には、“この三連戦に勝って、何が何でもプロ野球のいしずえを固めねばならぬ”という悲願があった」―。自身の著書「プロ野球風雪三十年の夢」(ベースボール・マガジン社)で、そう記している。18人の選手の気持ちも同じ。藤本が36年12月9日の第1戦当日の朝に宿舎近くの水天宮に願掛けにいくと、複数の選手がついてきたという。
プロ野球元年となった36年は、秋季に行われた6大会における優勝チームのポイント制で日本一を決める仕組みだった。結果は巨人とタイガースが同ポイントでトップ。洲崎球場での「日本一決定3連戦」で雌雄を決することとなった。
両軍はプロ野球の未来を背負っていた。洲崎球場と野球創成期の事情に詳しい森田さんは「当時は東京六大学が絶頂期。学生野球の人気をしのぐため、この3連戦で観客の心をつかみ、まだ地位が低かったプロ野球存続への道筋をつける必要があった」と解説する。
「巨人は最初に創設されたプロ野球球団で、人気も絶大。お膝元の東京での敗北は即、プロ野球自体の凋落(ちょうらく)につながる恐れがあったんです」。一方のタイガースには大阪をプロ野球の中心にする使命感があった。「当時は都市規模も拮抗(きっこう)していて東京への対抗意識も強いものでした」
第1戦は、巨人が5―3で勝利。沢村栄治が4回に景浦将に3ランを打たれたものの11奪三振で完投した。翌日の第2戦は沢村が志願先発して6回を6安打5失点(自責1)。巨人は4失策が響いて3―5で敗れた。
1勝1敗で迎えた最終戦。沢村は先発回避したものの5回から登板して5回0封。最後の打者・御園生崇男を三振に斬って取り、巨人が4―2で初代日本一となった。
藤本は当時のことを「“これでプロ野球も成功した”と、私の血は思わず、躍った」と前述の著書で明かしている。翌年から巨人―タイガース戦は、どの球場でもほぼ満員。「伝統の一戦」と呼ばれ、プロ野球を支える屈指の人気カードとなった。
洲崎球場は、巨人の初日本一の2か月前、36年10月13日に完成した。プロ野球初年度加盟の7球団の一つ・大東京軍オーナーの国民新聞社が建設。同年の秋季リーグ戦最終大会開催に間に合わせるため、51日間の突貫工事だった。
森田さんは「埋め立て地に造られたために地盤が軟弱だった」と説明する。「当時を知るおじいちゃんに聞くと、外野スタンドがギシギシいってたと。母親に『崩れるから入っちゃダメ』と言われたとか」。砂地のために杭(くい)すら打てず、杉材のスタンドを置いただけだった。
排水施設も不十分。雨が降ればグラウンドは数日ぬかるんだ。砂浜のようなグラウンドで捕ゴロと内野安打が多発。作家の林芙美子は36年12月1日の読売新聞の手記で「スパイクを履いた選手の靴が埋もれかけているやうに見える」と記している。日本一決定第2戦における巨人の4失策も、グラウンドコンディションの悪さが関係している。
海抜60センチの低地にあり、満潮時に海沿いのレフト側からすぐ海水が入り込んだ。川上哲治が初ベンチ入りした38年3月15日の巨人―金鯱のオープン戦では、プロ野球唯一の水没コールドを記録している。湿り気満点のグラウンドには無数のカニが生息。森田さんは「スタンドに上ってくるので、夕食のおかずにとバケツを持って来る観客までいたそうです」と話す。
37年9月に後楽園球場が完成。洲崎球場は最新設備の新球場へと役目を譲り、翌年からほとんど使われなくなった。終戦前に解体されたが、具体的に何年なのかは記録に残っていない。
巨人と最初に契約を結んだ三原脩は、35年に兵営に入っていったん退団し、36年9月に復帰。37年7月には日中戦争の発端となる盧溝橋事件が勃発し、同年夏には中日の一塁手・後藤正が戦死した。森田さんは「いつ戦地に赴くか分からない選手たちが青春を燃やし尽くし、プロ野球を存続させようと必死にプレーしたことで、ファンの熱狂を生んだと思いますよ」と強調する。
沢村は37年シーズン終了とともに戦地へ赴いた。40年に復帰したものの往年のスピードは戻らず、以降は兵役と復帰を繰り返して44年に戦死した。洲崎でのプロ野球開催は実質36~37年の2年間で計116試合だった。
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