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柔道男子73キロ級・橋本壮市 32歳で初めて挑む五輪は「集大成」…静岡県勢のパリ五輪代表内定第1号

スポーツ報知 / 2024年6月28日 7時32分

初の五輪に向けて、色紙に「皆さんと共に金」と書いた柔道パリ五輪代表の橋本壮市(カメラ・林 直史)

 7月26日のパリ五輪開幕まで1か月を切った。柔道男子73キロ級で浜松市出身の橋本壮市(32)=パーク24=は昨年8月、静岡県勢第1号で五輪代表に内定。このほど、「しずおか報知」のインタビューに応じ、32歳で挑む初舞台を「集大成」と位置付け、個人戦と混合団体の2冠を誓った。(取材・構成=林 直史)

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 6歳で柔道を始めて約26年。橋本は今夏、日本柔道男子史上最年長の32歳で五輪の舞台に立つ。

 「オリンピックを追い続けていたら、気がついたら32歳になっていた。年齢はあまり気にしていないし、体の動きは今が一番いい。本番もいい状態で臨めると思う」

 柔道経験者だった両親に連れられ、浜松市西区の育誠館を訪れたのは小学2年の時だった。

 「杉山(崇)館長には柔道の基本の『礼で始まり礼で終わる』であったり、礼儀作法を特に厳しく教わった。『ライバルはもっとやってるぞ。このままでいいのか!』とよく言われていて、勝負に対する思いも小学生の時に学んだ。練習後や休みの日には『メシ食わないと強くなんねえぞ』と、いろんなところに食事に連れて行ってもらったことも覚えている」

 小学校時代はサッカーと両立していたが、6年時には「柔道一本でやっていく」と決めた。00年シドニー五輪で金メダルに輝いた井上康生らをテレビで見て「こういう選手になりたい」とあこがれた。より高いレベルの環境を求め、進学先に選んだのは神奈川・東海大相模中だった。

 「全国の強豪中学校を見に行って、雲の上のようなすごい先輩が何人もいて衝撃を受けた。当時は静岡県の中学や高校もそんなに柔道が強くなかったので、両親と相談して県外に行くことを決めた。世界一になりたいという思いがあったのでさみしさはなかった」

 その後は東海大相模高、東海大と名門で鍛えられ、パーク24入社後の17年に世界選手権を制した。だが、同学年で16年リオ五輪から連覇した大野将平の壁に阻まれ、21年東京五輪は代表争いに敗れた。引退も考えたが、パリ五輪を目指して現役を続行した。

 「世界チャンピオンにもなって、いつ柔道を辞めてもいいと思った。東京五輪で落選した時は精神的にもきつく、引退も考えた。だけど、やっぱり自分の中で五輪というところが全てだった」

 パリ五輪への代表選考レースでは、常に一番手を走り続けた。23年世界選手権銅メダルなどの実績が評価され、優勝した8月のマスターズ大会後、全競技を通じて県勢第1号でパリへの切符をつかんだ。

 「パリ五輪は(競技人生の)集大成。応援してくれる人のためにというのはもちろん、自分のために戦いたい。個人戦、団体戦ともに金メダルを取って、皆さんにいい報告ができればと思う」

 柔道で県勢の五輪出場は92年バルセロナ五輪52キロ級女子銀メダルの溝口紀子がいるが、男子では初。3月には浜松市で「応援する会」も発足。地元からの期待をヒシヒシと感じている。

 「地元の人たちがすごく応援してくれて、本当に力になる。五輪でも背中を押してくれるので、あとは全力で戦うだけ。プレッシャーも全て力に変えて頑張りたい」

 〇…橋本は昨年8月の代表内定後、同9月の杭州アジア大会で2位となった。国際総合競技大会の経験がなく、選手村での生活など五輪と似た環境を経験するため志願の出場だった。同12月のグランドスラム(GS)東京大会は2位。今年3月のGSトビリシ大会3位で五輪前の実戦を終え、その後は国内で調整。パリ五輪で73キロ級は7月29日、混合団体は8月3日(いずれも現地時間)に行われる。

 ◆橋本 壮市(はしもと・そういち)1991年8月24日、浜松市生まれ。32歳。両親の影響から6歳で柔道を始める。東海大相模、東海大を経てパーク24所属。73キロ級で世界選手権は17年金、18、22年銀、21、23年銅と出場5大会全てでメダルを獲得。世界ランキング上位者らで争うマスターズ大会で4度の優勝。得意技は袖釣り込み腰。170センチ。家族は妻と長女。

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