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「高田ヒット」二塁打のはずが単打 巨人“塀際の魔術師”高田繁さんが「快感」と呼ぶビッグプレー

スポーツ報知 / 2024年7月19日 5時0分

1974年宮崎キャンプ、高田(手前)のティー打撃でトスする川上監督

 巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第7回は高田繁さん(78)の登場だ。俊足巧打に加え、卓越した左翼の守りは“塀際の魔術師”と称され、V9の大きな推進力となった。三塁への常識破りのコンバートも成功させた名バイプレーヤーの、「喜怒哀楽」の記憶をたどった。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫)

 「エラいとこにあたったな…」

 最初に頭に浮かんだのは、そのことだった。明大4年の1967年ドラフトで、巨人から1位指名を受けた。事前に球団から話はなく、「まさか!」だった。当時の巨人のメンバーを見たら、試合に出られるかどうか…。困ったな、となった。

 南海沿線に住んでいたので、子供の頃は南海ファン。浪商を卒業する時にも南海だけが声をかけてくれた。六大学に行きたい願望もあったけど、経済的にも親孝行になると思い、一度はお世話になろうと決めた。ところが、浪商の監督と理事長からストップがかかった。まだ線が細いと思われたんだろうね。

 巨人では「何とかベンチ入りメンバーに食い込もう」と心に決めた。もともと足と肩には自信があった。その2つにはプロもアマもないと思っていたから。

 プロでもメシが食えると思えたきっかけは、1年目の夏にあった。川上哲治監督の指名で、みっちり10日間、マンツーマンで特打をやった。スランプでもないのにね。

 当時のナイターは19時開始。13時に後楽園に行って、1時間ほど打つ。涼しい医務室で昼寝して、夕方になったらチームと一緒に練習する。川上さんが特定の選手につきっきりなんて、その後は見たことがない。今思えば、それだけ期待されていたんだろう。鉄は熱いうちに打て、と。特訓のおかげもあって、10月にラストスパートをかけて新人王。勢いのまま、日本シリーズでもMVPが取れた【注】。

 得意の守りでは“塀際の魔術師”と呼んでもらった。「高田ヒット」と名付けられたプレーがある。左翼線に二塁打性の当たりが飛んでくる。まず考えるのは抜かれないことだが、抜けたとしても、クッションボールのクセなら球場ごとに全て頭に入っている。クッションを処理した後は、投げる方向を見なくても二塁にストライクを放ることができた。初めのうちは二塁でアウトにするのが快感。それが、走者が二塁をあきらめてくれるのが快感になった。二塁打のはずが、単打で止まるから「高田ヒット」。誇らしかったね。

 幼い頃からのプロになる夢がかない、巨人でレギュラーとなり、1年目から成功できた。一番の喜びとなると、そこに尽きるのかな。

 【注】1年目の9月終了時点では打率・281だったが、10月に入って調子を上げ、最終的には120試合で打率・301、9本塁打、23盗塁で新人王。阪急との日本シリーズでは全6戦で1番打者として出場し、26打数10安打の打率・385でMVPに輝いた。

 ◆高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日、鹿児島県生まれ。78歳。浪商高(現・大体大浪商)から明大に進み、67年ドラフト1位で巨人入団。68年に新人王。69年から4年連続ベストナイン。80年引退。85年から4年間、日本ハム監督。巨人の1軍コーチ、2軍監督、日本ハムGMを歴任し、08年から10年途中までヤクルト監督。11年12月にDeNAの初代GMに就任し、18年まで務めた。現DeNA本社フェロー。現役時代の背番号「8」から「エイトマン」の異名も。右投右打。

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