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五輪連続出場死守した五十嵐俊幸 元世界チャンピオンが語る2004年アテネ出場までの舞台裏…前編

スポーツ報知 / 2024年7月26日 7時0分

アテネ五輪の思い出を語った元世界王者の五十嵐俊幸さん(カメラ・近藤 英一)

 パリ五輪は26日に開会式を迎え、本格的に競技がスタートする。ボクシングにもメダル獲得の期待がかかる中、日本代表として五輪に出場しプロの世界チャンピオンになったボクサーは過去に4人いる。その中のひとり、五十嵐俊幸(40)は、東農大3年で2004年アテネ五輪にボクシング日本勢で唯一の代表として出場し、卒業後はプロ入りしてWBC世界フライ級王座を獲得した。「後楽園ホールのヒーローたち」第13回は、金看板を背負いプロ入りした五十嵐に、五輪の思い出やプロとアマの違いを聞いた(取材・構成=近藤英一)=敬称略=

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 アマボクサーなら誰もが憧れる舞台だろうが、五十嵐には是が非でも五輪出場という思いは無かったという。

 「高校1年でボクシングを始めたんですが、当時はオリンピックに出たいとか、プロで世界チャンピオンになりたいという思いは全くありませんでした。大学時代も全日本選手権に優勝して友人から『来年オリンピックあるぞ』と言われて、(五輪を)意識したのが1年前。毎日練習して1日1日強くなっていく成長を楽しんでいただけでした」

 ボクシングを始めた当初の話を聞くと、よくぞオリンピアンにまでなったと感心する。幼少の頃から同級生に比べ体が小さく運動は苦手だった。小学校で野球、中学でバスケをやったがレギュラーにはほど遠く、常にベンチを温めた。高校では「もう部活はやらない」と決め、自宅から自転車で10分という秋田県立西目高に進学。「入学当初は当然のように帰宅部だった」が、さすがに両親から「何でもいいから」と部活を勧められた。サッカー、柔道、剣道…。「同級生たちと比べて運動能力が著しく低かった」と、どれも体が受け付けなかった。そんな時、同じクラスの友人からボクシング部を勧められた。

 「もう消去法です。最後に残ったのがボクシング部でした」というが、これが世界の頂点まで登り詰めるスポーツとの出会いだった。ちなみに部活を勧めた両親でさえボクシングと聞き「俊幸にできるわけがない。辞めとけ」と言ったそうだ。

 話は中学時代に戻る。テレビに映し出されたWBC世界バンタム級タイトルマッチ(1997年11月22日)。挑戦者の辰吉丈一郎(大阪帝拳)がチャンピオンのシリモンコン(タイ)を7回TKOで破り、王座返り咲きを果たした試合。死闘を目にした五十嵐は感動した。そしてこう思ったという。

 「すごい商売があるんだ。でも、自分には無理だ」

 高校でボクシングを始めた五十嵐が初めてスパーリングをしたのは入部5日目。何も分からずリングに立ち「ボッコボコに殴られた」。これまでスポーツで負けても「体が小さいから」と自分自身で言い訳を作っていたが、この時ばかりは違った。「体のサイズが同じような選手に負けた。言い訳ができないし、これまで感じたことのない悔しさを初めて感じた」と、翌日にもう一度同じ相手とのスパーを監督に頼み込んだ。「やられる前にやってしまえばいいんだ」。たったそれだけだった。前日に完膚なきまでにたたきのめされた相手を、今度はボッコボコにするTKO勝ち。「その時、ボクシングって、気持ちの問題ということを痛感した。それだけで強くなれる競技」と、ここからうそのような快進撃が始まる。

 自他共に認める運動音痴が、2年で国体3位となる。サウスポースタイルからのワンツーを武器に勝利を重ね、3年時にはインターハイ、国体を制覇した。当時の練習風景はこうだった。

 「3年生の時は同級生が自分を含めて3人。自分はライトフライ級(当時は48キロ以下)ですが、他の2人はフェザー級(57キロ以下)とライトウエルター級(64キロ以下)。同じ体格のスパーリングパートナーがいないので同級生の2人とやるんですが、重さも違うし勝てるわけがない。いつもボッコボコにされます。絶対勝てない同級生に立ち向かっていった結果、同じ階級にいる全国の強豪たちには負けなくなった」

 推薦で進んだ東農大でも活躍した。ただ、入学当初は前述したように日の丸を背負ってリングに立つなどの夢は無かった。2003年の全日本選手権で優勝すると五輪出場権のかかる2004年アジア予選への出場が決定する。運が悪いことに1次予選初戦は鄒市明(ゾウ・シミン)と対戦。アテネで銅、北京、ロンドンでは2大会連続で金(プロでも世界王座を獲得)という中国の英雄に敗れた。その後の2次予選、3次予選はいずれも準決勝で敗退。自力での出場権獲得はならなかった

 ボクシングの代表は92年バルセロナ五輪からレベルの均一化を図るために従来の国ごとの代表から大陸ごとの代表制に変更された。全日本選手権優勝で得ていた五輪切符が、その次にアジア予選で好成績を収めなければ代表権が与えられない厳しいものとなっていた。88年ソウルでは7人だった代表が、大陸予選が導入されて以降はバルセロナ4人、96年アトランタ3人、2000年シドニー2人。そしてアテネ…。

 出場選手が減る一方の現状に、五十嵐は代表チームのメンバーとこう話していたという。

 「大会ごとに代表が減っていって、今度(アテネ)ゼロになったらアマボクシング界は本当にまずい事態になる」

 そんな中、五十嵐へ吉報が届く。出場権を獲得していたパキスタン選手が手術のため出場を辞退。それを受け、AIBA(国際ボクシング・アマチュア連盟)から繰り上げ出場になったという連絡を受ける。

 「自分が五輪の舞台に出れるという喜びよりも、たっと一枚でも日本の連続出場を守れたという安堵感の方が大きかった。ホッとしたいうのが本音です」

 日本の連続出場を守った五十嵐は、日の丸を背負いアテネの地に乗り込んだ。そして試合本番。窮地に立たされた日本チームに救い手の手を差し伸べたのは、モンゴルチームのモンゴル人コーチだった。(続く)

 ◆五十嵐 俊幸(いがらし・としゆき)1984年1月17日、秋田県由利本荘市生まれ。秋田県立西目高3年でインターハイ、国体を制覇。卒業後は東農大に進学し2、3年時に全日本選手権優勝。2004年アテネ五輪代表。アマ戦績は95戦77勝18敗。2006年8月にプロデビュー。2012年7月にWBC世界フライ級王座を獲得し1度の防衛に成功。プロ戦績は23勝(12KO)3敗3分け。身長167センチの右ボクサーファイター。引退後は株式会社ENEOSフロンティアに勤務。家族は妻と中学2年生の長男。

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