1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

エースのプライドを「たたきつぶした」松平監督の戦略…ミュンヘン五輪男子バレー金メダルの奇跡<2>

スポーツ報知 / 2024年7月27日 12時0分

1972年9月11日 ミュンヘン五輪男子バレーで優勝して胴上げされる松平康隆監督

 パリ五輪で世界ランク2位の男子バレー日本代表は石川祐希、高橋藍ら充実戦力を有して金メダル獲得に挑む。日本が五輪の頂点に立てば1972年ミュンヘン五輪以来52年ぶりとなる。松平康隆監督が率いた半世紀以上前の日本代表の“秘話”を、スポーツ報知が「あの時」と題して2016年に掲載した連載を再録する。(全5回の第2回)

*****

 64年東京五輪で、男子バレーに屈辱的な出来事が起きた。当時、バレーと言えば、女子だった。東洋の魔女として、決勝でソ連を破り、金メダルを獲得、驚異的な平均視聴率66・8%(ビデオリサーチ調べ)をマーク、日本中を熱狂させた。男子は銅を手にしたものの、全く注目されなかった。五輪閉会式の翌日に行われた日本協会主催の祝賀会の席から当時、コーチだった松平に電話が入った。

 「何をいじけているんだ。早く祝勝会に来い」。松平には心当たりがない。後に、日本協会が連絡をすることを忘れていたことが分かったが、松平は「くそっ、今に見ていろ。金メダルを取ってたたきつけてやる」と、闘志をたぎらせた。

 東京五輪後、監督に就任した松平はミュンヘンで金メダルを取る8年計画のスタートを切った。東京大会で初めて五輪競技に採用されたバレーは6人制だったが、日本では9人制が盛んだった。このため、日本代表は9人制からかき集められた急造チームで、その土台を作り直すことから始めた。190センチ以上で運動神経の優れた選手を求め、日本全国を回った。大古、横田、森田のビッグ3はこの時に発掘した。

 東京五輪の大エースだった南には、過酷な守備練習を課した。68年メキシコ市五輪の直前、南は結核を患い、長期療養から復帰したばかりだった。「南のプライドをたたきつぶせ、それができなかったらお前はクビだ」との指令を受けたのは中野(旧姓池田)コーチだ。9人制出身の南は「スパイクを打てばいい。守りはやらなくていい」と考えていた。

 だが、全員が守備をできなければならないという構想を持っていた松平は、妥協は許さなかった。中野は台の上から容赦なく、スパイクを連日打ち続けた。ダイビングで球を拾う南のあご、肘、膝からは血が流れ、ユニホームは赤く染まった。その姿に中野は涙を流しながら、ボールを放ったという。ついには、南は、ワーッと号泣し、体育館から飛び出した。妻には「もう帰るから」と電話した。

 だが翌日、南はコートに現れた。「あれでチームがひとつになったように思ったし、一回り大きくなったと感じた。東京の英雄でもあれだけの練習をしなければ、金メダルを取れないということを監督はみんなに知らしめたんです」と中野は振り返った。

 当時の男子バレーファンの多くはこのエピソードを知っていた。これも松平の戦略だった。(久浦 真一)=敬称略=

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください